湯島聖堂・神田神社・小石川大神宮・北野神社 御朱印めぐり
この記事では、その中でお茶ノ水駅をスタート、聖橋のたもとに建つ孔子廟;湯島聖堂、神田明神;神田神社、
そして小石川大神宮、北野神社、さらに飯田橋駅にほど近い筑土八幡神社をめぐる御朱印めぐりの旅を紹介しています。
湯島聖堂
湯島聖堂(ゆしませいどう)は、中央線の御茶ノ水駅聖橋口からでて、聖橋を渡りすぐの右手、文京区湯島一丁目
にある国指定の史跡です。
始まりは、寛永七年(1630)、徳川幕府の儒臣、林羅山が上野忍岡に建てた家塾になるそうです。そして寛永九年
(1632)、尾張家の始祖、徳川義直がこれを助け、孔子の聖像などを祀る先聖殿を寄進したそうです。
それから元禄三年(1690)、5代将軍徳川綱吉がこの廟殿を湯島に移し、大成殿と改称、以後、聖堂と呼ばれるよう
になったそうです。
仰高門が入口になります。
仰高門から進みますと、突き当り右手に、孔子像が建っています、この像は5メートル近いもので、孔子像
としては世界最大になるそうです。
大成殿の前には、間口20メートルの杏檀門が建っています。
大成殿(孔子廟)は、関東大震災焼失後、昭和十年に再建されたものになります。
御朱印は、仰高門右手の事務所の方でいただきます。
神田神社
神田神社は、湯島聖堂から徒歩2分程度の千代田区外神田にある神社です。
野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公;銭形平次は架空の人物ではありますが女房“おしず”と共に
“神田明神下”の長屋に住んでいる設定になっていて、“神田明神”としてご存じの方も多いかとおもいます。
神田神社の主祭神は、大己貴命(だいこく様)、少彦名命(えびす様)、平将門命(まさかど様)の3人を祀っています。
社伝によりますと、天平2年(730)に出雲氏族で大己貴命の子孫により創建されたものと伝えられています。
その後、天慶の乱(平将門の乱)で死んだ平将門公を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門のたたり
などとして人々を恐れさせたため、延慶2年(1309)当社に奉祀することになったそうです。
江戸幕府が開かれると、幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に
遷座し、幕府により社殿が造営され、以後「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで「明神さま」として
篤い崇敬をお受けになられました。
明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称したそうです。
小石川大神宮
小石川大神宮(こいしかわ だいじんぐう)は、文京区小石川二丁目にある神社です。
祭神には、天照皇大神を祀っています。
昭和四十一年(1966)、神宮総代の要職にあった佐佐木勝造氏の主唱により創建された神社です。
伊勢神宮の分神として、「遙宮(とうのみや)」と呼ばれています。
社殿へは、ビルの1階を通り抜けてまいります。
牛天神 北野神社
牛天神北野神社は、文京区春日1丁目にある天神様;菅原道真公を祀る神社です。葛飾北斎が、
富嶽三十六景の一つ、「礫川雪ノ旦(こいしかわゆきのあした)」を描いたという高台に建っています。
社の案内によりますと、創建は鎌倉時代の元暦元年(1184)、源頼朝公が当地にあった岩に腰掛け休息したとき、
夢に牛に乗った菅原道真公が現れ「二つの喜びがある」と告げられたそうです。翌年その喜びがあり、頼朝公が
この岩を祀り、牛天神を創立したのが始まりになるようです。
以来、境内にある牛の形をした岩「ねがい牛」(写真下)をなでると願いが叶うといわれています。
本殿前には、明治の歌人;中村歌子の歌碑
「雪のうちに 根ざしかためて 若竹の 生出むとしの 光をぞ思ふ」
が建っています。
境内社の一つ太田神社は、もと祀られていた貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ;弁財天の姉)に
まつわる言い伝えがあります。
江戸時代にある清貧旗本が夢でみた老婆(黒闇天女)のお告げを実行し福がもたらされたという出来事から、
“人についている貧乏神を追い払い、福の神を招き入れることができる”と、庶民の信仰を集めるようになったそうです。
太田神社の御朱印には、「貧乏神はあちらにゆけや 神風に」と朱書きされていました。
筑土八幡神社
筑土八幡神社(つくどはちまんじんじゃ)は、飯田橋駅から徒歩5分ほどの新宿区筑土八幡町にある神社です。
祭神には、八幡大神;応神天皇、神功皇后、仲哀天皇の3柱を祀っています。
社の案内によりますと、牛込の里に住んでいた信仰心の厚かった老人の夢に現れた八幡神を祀ったのが始まり
になるそうです。
その後、伝教大師(最澄)がこの地を訪れ、神像を彫刻し祠を建て祀ったそうで、その時に筑紫の宇佐神宮の
宮土を基礎としたので「筑土八幡神社」と名付けられたそうです。