氷川神社 (大宮氷川神社)
氷川神社は、大宮駅や東武野田線北大宮駅から徒歩15分程度のさいたま市大宮区大宮公園の一角にある武蔵一宮に
列せられる神社です。
社伝によりますと氷川神社の創建は、今から二千四百年前の第五代孝昭天皇三年と伝えられています。奈良時代の
聖武天皇の御代に、「武蔵一の宮」に列せられている格式の高い古社になります。
「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来するそうです。
旧国道16号沿いにある「二の鳥居」(写真下)は、高さ13メートルで木造では関東一の高さになるそうです。
二の鳥居から三の鳥居までは大欅の並木参道が500mほど続いています。
「三の鳥居」(写真上)をくぐると右手に「神楽殿」と「額殿」(写真下)が目に入ります。
その先には並々と水をたたえた神池にかかる「神橋」、その先には、楼門がそびえています。
この地は、江戸時代中ごろまで「見沼」という広大な沼だったそうで、今も水が湧いているとのことです。
下の写真は、神橋から境内摂社になる「宗像神社」を見たものです。
下の写真は、楼門になります。
楼門の先は、現在でも雅楽会などが行われている「舞殿」(写真下)になります。
舞殿の先は、「拝殿」(写真下)そのさらに先が本殿になります。現在の本殿は、昭和十五年に再建されたものになります。
安楽寺
安楽寺は、大宮駅から徒歩3分ほどのさいたま市大宮区桜木町にある浄土真宗の寺院です。山号は生應山、
本尊は阿弥陀如来立像になります。
創建は、江戸時代の寛永年間になるようです。
大本堂は3階、下の写真は1階にある小本堂になります。
安楽寺でいただく御朱印は、見開きになります。
参拝に訪れたのが正月2日、「聞即信」と浄土真宗の教えが書かれ、宝印は金色で押されていました。
“聞即信”とは、「南無阿弥陀仏と称えることの意味を聞くことが そく 信じること」となるようです。阿弥陀仏は、
聞いて信ずる者を助けるということですから、聞くということが阿弥陀仏の救いにとって、最も大切なことになるようです。
中山神社
中山神社は、さいたま市見沼区中川にある神社です。 別称として中氷川神社とも呼ばれ、氷川神社(大宮区)
・氷川女體神社(緑区) とともに3社で一体の氷川神社を形成していたという説があるようです。
社伝によりますと「中氷川」の由来は、当社が氷川神社と氷川女体神社の中間に建ち、鎮火祭の火によって
「中氷川」の氷が溶け、「中川」の地名になったそうです。
創建は崇神天皇二年(紀元前95年)と伝えられ、主祭神は大国主命の別名になる大己貴命(おおなむちのみこと)になります。
拝殿(写真上)の前には、12月8日の鎮火祭りが行われる御火塚があります。
氷川女體神社
氷川女體神社(ひかわにょたいじんじゃ)は、さいたま市緑区にある神社で、武蔵国一宮になります。
主祭神は氷川神社の主祭神須佐之男命(すさのおのみこと)の妃、奇稲田姫尊(くしなだひめのみこと)になります。
氷川女體神社の「女體」は、稲田姫命に由来しています。
社伝によりますと創建は紀元前の崇神天皇の御代、出雲から勧請したそうです。
朱塗りの女体橋から境内に入ります。
現在の本殿は寛文7年(1667)に再建されたものになります。下の写真は、拝殿になります。
御朱印をいただいた社務所の脇に建つご神木には、動物のように見える大きなこぶが生命力を伝えていました。
女体橋の前には「磐船祭祭祀遺跡」があります。古くから氷川女体神社では、“御船祭”が盛大に行われていたそうですが、
江戸時代の享保年間に見沼が干拓され御船祭ができなくなり、池の中に丸い島を築いた祭祀場を設け、そこで御船祭に
代わる “磐船祭”を行うこととなったそうで、その遺跡(写真下)が保存されています。
調神社
調神社(つきじんじゃ)は、浦和駅から徒歩7分ほどのさいたま市浦和区岸町にある神社です。 社の由緒によりますと、
中世、調が月と同じ読みから、月待信仰に結び付き、江戸時代には月読社とも呼ばれていたそうです。
調神社の入口に建つ狛犬は、本来の犬ではなく“兎”の石像になっています。
月待信仰が、いつしか”ウサギ”に転じたようです。
手水舎も兎から水が湧いています。
社の由緒では、創建は紀元前になりますが崇神天皇の勅命によるそうです。
祭神は天照大神、豊宇気姫命(とようけびめのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)の3柱になります。
いただいた御朱印にも”ウサギ”が押されていました。
調神社には、鳥居がありませんが、これは伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに邪魔になるということが背景にあるようです。