橋本から高野山へは、南海高野線に沿って高野街道が走っています。この記事では、高野街道沿いにある九度山町、かつらぎ町界隈の高野山と関係の深い寺社の御朱印めぐりを紹介しています。
丹生都比売神社
丹生都比売神社は、紀の川の中流、和歌山県かつらぎ町にある紀伊国一之宮になる神社です。
全国におよそ180社あると言われる丹生都比売神を祀る神社の総本社になります。
祭神は、丹生都比売大神、そして弘法大師空海を高野山へ導いたという導きの神;高野御子大神、
大食津比売大神、弁天さま市杵島比売大神を祀っています。
社の由緒によりますと創建は今からおよそ1700年前とのことです。
丹生都比売大神(天照大御神の御妹神)が紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、
この天野の地に鎮座されたそうです。
弘法大師空海が、高野山金剛峰寺を建立するにあたっては、当社が神領を寄進したという言い伝えがあり、
古くから高野山と深い関係にある神社です。
また当社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず当社に参拝するのが慣習であったそうです。
楼門は、室町時代に建立されたもので国の重要文化財に指定されています。
同じく重要文化財になっている本殿は第一殿から第四殿の4棟からなっています。楼門奥の最上段に向かって
右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座しています。
慈尊院
慈尊院は、高野山のふもと和歌山県九度山町にある高野山真言宗の寺院です。山号は万年山、本尊は
国宝の弥勒菩薩になります。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、慈尊院という名がつけられたようです。
創建は弘仁七年(816)、弘法大師空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの
地に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山全体の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所や冬期避寒
修行の場としたのが始まりになるそうです。
讃岐から出てこられた空海の母は、女人禁制であった高野山には入れず、慈尊院に滞在し、ここで
亡くなったそうです。空海は、ひと月に九度も高野山から母を訪ねてきたとのことから、この地は
「九度山」と名付けられたようです。また慈尊院は、女人の高野山参りはここということで「女人高野」
とも呼ばれているそうです。
本堂である弥勒堂(写真下)は鎌倉時代の建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
境内には、寛永元年(1624)に再建された多宝塔が存在感をもって建っています。
いただいた御朱印には、「弥勒佛」と書かれていました。
丹生官省符神社
丹生官省符神社は慈尊院の多宝塔の横からまっすぐに上る石段をあがった所にある神社です。
社の案内によりますと、祭神には、天照大神の妹神になる丹生都比売大神、丹生都比売大神の御子で
真言密教の守護神である高野御子大神のほか、大食都比売大神、市杵島比売大神、天照大御神、誉田別大神、
天児屋根大神を祀っています。
創建は、弘法大師空海が慈尊院を開創した弘仁七年(816)、守り神として地元にゆかりのある丹生都比売・
高野御子の二神を祀ったのが始まりだそうです。
丹塗りの鳥居の先に拝殿(写真下)、そしてさらに奥に極彩色の社殿があります。
拝殿横の高野山遥拝所からは、天気が良ければ高野山を仰ぎ見ることができます。
社殿三棟(写真下)は木造一間社春日造、桧皮葺、極彩色北面で重要文化財に指定されています。
善名称院 (真田庵)
善名称院(ぜんみょうしょういん)は、和歌山県九度山町にある高野山真言宗の寺院です。真
田昌幸・信繁(幸村)の蟄居時代の草庵跡と伝わる場所に建っていて、別名、“真田庵”と呼ばれています。
山号は伽羅陀山、本尊は延命子安地蔵菩薩になります。
創建は寛保元年(1741)、大安上人が真田昌幸の庵跡と伝承のあるこの地に地蔵菩薩を安置するお堂を建てた
のが始まりになるそうです。
関ヶ原の戦いに西軍として参加した真田昌幸・信繁親子は、高野山の蓮華定院に配流の身となりましたが、
その後、九度山に移され蟄居生活を送ったそうです。善名称院は、その庵があったと伝わる場所になります。
山門にも、真田家の家紋“六文銭”が彫られています。六文銭は、「いつ命を落としても三途の川を渡れるように、六文銭
を常に身につけておく」という武士としての心根、気概を表しているようです。
真田地主大権現には、毘沙門天と共に真田三代の御霊が合祀されています。
いただいた御朱印には、「真田地蔵尊」と書かれていました。