蕪島神社、櫛引八幡宮、法光寺、十和田神社 御朱印めぐり
蕪島神社 (八戸弁財天)
蕪島神社は、八戸市鮫町にある蕪島という島の頂上に建つ祭神、市杵嶋姫命、弁財天を祀る神社です。
現在は埋め立て工事が行われ、陸続きになっていますが、戦前はれっきとした島であったそうです。
蕪島自体は、ウミネコの繁殖地として、国の天然記念物に指定されています。
この地では、ウミネコは漁場を知らせてくれる鳥であり、弁天様の使いとして大切にされてきたそうです。
3万羽を超えるウミネコが2月に蕪島に来て、産卵、子育てを終え、8月初めには、全羽、 島を離れるそうです。
訪れたのは10月中旬、とても静かな蕪島になっていました。
下の写真は、蕪島神社の裏手から太平洋を見たものになります。
下の写真は、蕪島の一番高いところに建つ本殿になります。
手水舎にも、ウミネコがデザインされていました。
いただいた御朱印の右下にもウミネコが押されていました。
櫛引八幡宮
櫛引八幡宮は、八戸市にある八幡神を祀る神社です。
文治五年平泉合戦(1189)に戦功をたてた南部家初代の光行公が源頼朝からこの地域を拝領、建久二年(1191)
に入部、後に出身地の甲斐南部郷(現在の山梨県南部町)から八幡宮の御神体を奉持し、櫛引村に宮社を造営し
武運長久を祈ったのが始まりになるそうです。 以後、南部藩の総鎮守として、尊崇されてきた神社です。
鳥居を入った正面に建つのが、4脚門の正門、南門(写真下)になります。
正門の先には拝殿(写真下)、その奥が本殿になります。
なお正門手前の社務所の横には、明治十四年(1882)に建てられた洋館である八戸小学講堂があり、
その前には同じ年、この地を訪れた明治天皇の銅像が建っていました。
法光寺
法光寺は、青森県南部町にある曹洞宗の寺院です。
山号は、山門下にある池の白連華に由来して白華山、本尊は、釈迦牟尼仏になります。
創建は、鎌倉時代の建長年間(1249~1256)、北条時頼の開基になるそうです。
法光寺に続く参道には、日本の名松百選に選ばれた「千本松」とよばれる松並木があり、法光寺の風情を作っています。
山門(写真下)から境内に入ります。
伽藍は、明治時代の火災で焼失、現在の本堂は、昭和五十八年に再建したものになるそうです。
本堂の裏手にある三重塔「承陽塔」は、昭和二十四年に建立されたもので、日本一の高さ(33メートル)
を誇っています。この三重塔には、曹洞宗の開祖である道元禅師の霊骨を奉安しているそうです。
いただいた御朱印には、「承陽大師」と書かれていました。
承陽大師とは、明治十二年(1879)に道元禅師におくられた諡号だそうです。
法光寺から、今回は80キロほど離れた十和田神社に向かいます。
途中、奥入瀬渓流を回って十和田湖に向かいます。
下の写真は、奥入瀬渓流の「阿修羅の流れ」と「銚子大滝」近くの流れになります。
十和田神社
十和田神社は、青森県十和田湖畔、湖面に突出する二つの半島の一つ、中山半島の付け根にあたる
休屋という所にある神社です。 休屋の旅館や土産物屋がひしめく道の突き当りに一の鳥居があり、
ここから杉やヒノキの巨木が茂る十和田神社の参道が続きます。
参道を進みますと途中に二の鳥居、さらに進みますと本殿に続く石段、そこを登ると本殿になります。
社伝によりますと、社の縁起には二通りの説があるようです。 一つは、“青龍権現”にまつわる伝説です。
熊野権現で修行した南祖坊という僧が、諸国をめぐる中、十和田湖まで来て、当時、十和田湖では八郎太郎
というマタギが八頭の大蛇に変じ湖を支配していたそうです。
南祖坊は、その霊験により自らを龍(青龍権現)に変じ、これを退治したそうで、南祖坊は「青龍権現」と
して崇められ、ここに祀られるようになったそうです。
現在も、奥ノ院ともいうべき神社の背後の山道(写真上)を登りきった所に「青龍権現社」(写真下)
に祀られています。ちなみに、敗れた八郎太郎は、秋田の湖に逃げ、それが現在の八郎潟になるようです。
もう一つは、大同二年(807)、坂上田村麻呂が東征の折、ここに社を建て現在の主祭神である“日本武尊”を
祀ったそうです。 いただいた御朱印は二つです。 一つは、「十和田神社」の御朱印です。
二つ目は、南祖坊を祀る青龍権現社「青龍」の御朱印です。
十和田神社から200メートルほど行った御前ヶ浜には、詩人にして彫刻家であった高村光太郎の傑作と
いわれる「乙女の像」(写真下)が建っています。
この像は、昭和28(1953)年に建立されて以来、十和田湖のシンボル的存在になっています。
下の写真は、御前ヶ浜から見た十和田湖です。