平泉 御朱印めぐり
平泉文化は、今から900年ほど前の平安時代の後期(1100年代)、藤原清衡を父としてその子の基衡、
さらに孫の秀衡に至る奥州藤原三代がおよそ100年にわたって築いた仏教文化を言います。
清衡は金色堂をはじめとする“中尊寺”の伽藍整備を進め、基衡は中尊寺をしのぐ規模で浄土庭園が
今に残る“毛越寺”を建設しました。
三代の秀衡は、今は遺跡しかありませんが宇治の平等院鳳凰堂に倣い“無量光院”を建立しています。
藤原四代泰衡は、源頼朝の圧力に屈し源義経を自害に追い込み、自らも1189年、頼朝の軍勢に滅ぼされ、
奥州藤原氏の時代は終わりました。
この記事では、JR平泉駅から徒歩で毛越寺、中尊寺そして平泉で最期を遂げた源義経を祀る義経堂、また坂上田村麻呂の創建と伝わる達谷窟毘沙門堂を巡る御朱印めぐりを紹介します。
毛越寺
毛越寺(もうつうじ)は、岩手県平泉にある天台宗の寺院です。JR平泉駅から西へ800m、
およそ徒歩10分程度の所にあります。山号は医王山、本尊は薬師如来になります。
寺の由緒によりますと、創建は嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁により開かれたといわれています。
その後、奥州藤原氏2代基衡、及び3代秀衡が、広大な境内に金堂円隆寺をはじめ講堂や常行堂、
鐘楼や経楼などの壮大な伽藍を建立、その前に大泉が池を中心とする浄土庭園を配した仏の世界
を作り上げたのが毛越寺になります。
本堂には、平安時代につくられた本尊の薬師如来が安置されています。
いただいた御朱印には、本尊の「薬師如来」と書かれていました。
塔山を借景に、仏堂の前に造築された庭が、極楽浄土を表現した浄土庭園になります。
庭の中心をなしている「大泉が池」は、海を表していて、洲浜や荒磯、築山など海浜の趣が配されています。
池中立石(写真下)は、荒磯の風情を表現しているもので、毛越寺の庭園を象徴する景観を創っています。
庭の西側には、開山慈覚大師円仁を祀るお堂、開山堂があります。
庭の正面には、毛越寺の中心的伽藍であった金堂円隆寺跡が残っています。
金堂の円隆寺は、金銀、紫檀をちりばめ、その荘厳さは『吾妻鏡』に「吾朝無双」と評されたほど、
立派なものだったそうです。
金堂円隆寺跡の東側には、山水を池に取り入れるための水路である「遺水」があります。
水底には大きめな玉石が敷き詰められていて、平安時代の作庭技術の高さが分かる貴重な遺構だそうです。
遣水の隣にあるお堂は、享保十七年(1732)に再建された常行堂で、本尊の宝冠阿弥陀如来が
安置されています。
中尊寺
中尊寺は、毛越寺から北へ1500mほどの所にある天台宗東北大本山の寺院です。山号は関山、
本尊は丈六の釈迦如来になります。
寺の由緒によりますと、創建は嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁により開かれたといわれています。
その後、12世紀の初めに、奥州藤原氏初代藤原清衡が、前九年、後三年の役で亡くなった人々の霊を
慰め、また“みちのく”に仏の教えによる理想社会を築かんと大規模な伽藍の造営を行ったそうです。
奥羽街道国道4号線から中尊寺に入る所には、弁慶の墓と伝わる場所があります。
そしてその先が中尊寺入口、ここから金色堂まで700メートルほど続く表参道、月見坂になります。
月見坂の中ほどを過ぎた右側にあるのが、中尊寺の本尊、丈六釈迦如来坐像が安置されている本堂
になります。
この像は、光背を含め5mにもなる大きな釈迦如来ですが、これは藤原清衡が皆金色の丈六釈迦如来像
を本尊として安置したことに倣い、平成二五年(2013)に、開眼法要が行われたものになります。
本尊の両脇の灯籠には、比叡山延暦寺、伝教大師最澄の時代から灯り続ける「不滅の法灯」が護持されています。
現在のお堂は、明治42年(1909)に再建されたものになります。
本堂でいただく御朱印には、本尊“釈迦如来”を表す梵字「バク」という一字がかかれていました。
本堂からおよそ200メートル、平坦の地にあるのが金色堂です。
金色堂は、天治元年(1124)に建てられたもので、創建当初の姿を今に伝える中尊寺唯一の建物になります。
堂の内外に金箔が押され、「皆金色」の阿弥陀堂で、金色堂を風雨から守るために覆堂で覆われていています。
“金色堂”として写真に写っているのは、この“覆堂”になるわけです。
金色堂内部の須弥壇の上中央には本尊“阿弥陀如来”、そして向かって右に“観音菩薩”そして左に
“勢至菩薩”が並んでいます。
そして、須弥壇の内には、藤原清衡、基衡、秀衡藤原三代のミイラ化した遺体が安置されています。
また源頼朝により滅ぼされた泰衡の首級も納められています。
金色堂では、「金色堂」と書かれた見開きの御朱印をいただいてきました。
金色堂の手前に建つ讃衡蔵は、平成十二年(2000)に、宝物館として建てられたもので、讃衡蔵と
いう名称は「藤原三代の偉業をたたえる宝蔵」と言うことを意味しているそうです。
讃衡蔵には、元本坊本尊の木造阿弥陀如来坐像 、峯薬師堂にあった木造薬師如来坐像 、閼伽堂に
あった木造薬師如来坐像 の3体の丈六像をはじめ、3,000点以上の国宝や重要文化財が収蔵されて
いて、金色堂と一体となった拝観券で観賞することができます。
こちらでは、「丈六佛」と書かれた御朱印をいただくことが出来ます。
なお金色堂の先には、元禄二年(1689)、奥の細道の散策でこの地を訪れた松尾芭蕉の像が建っていました。
中尊寺には、中尊寺本坊のほか多くの子院があり、この記事で紹介しました御朱印の他、境内にある
様々なお堂で御朱印をいただくことが出来ます。
高館義経堂
中尊寺入口から南東の方向へおよそ500メートル、北上川を望む高台にあるのが高館義経堂です。
眼下には、北上川がゆったりと流れています。
兄である源頼朝に追われ、平泉に落ち延びた源義経は、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館
に妻子と共に身を置いていたと伝えられています。
そして、頼朝の圧力に屈した泰衡の前に、この地で妻子と共に自害したそうです。
義経堂は、天和三年(1683)仙台藩主伊達綱村が義経を偲んで建立したものだそうです。右奥には、義経の供養塔も建っています。
いただいた御朱印には、「義経大明神」と書かれていました。
元禄二年(1689)に、この地を訪れた松尾芭蕉は、悲運の武将源義経を偲び
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
の句を読みましたが、北上川を見下ろす高館の高台に歌碑が建てられています。
なお以前から当地にあった歌碑は、現在、義経堂を管理している毛越寺の境内に移されています。
達谷窟毘沙門堂 別當達谷西光寺
達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや びしゃもんどう)は、名勝”厳美渓”(写真下)にほど近い平泉町字北澤
にある毘沙門天を祀ったお堂です。
東西に長さ約150メートル、標高差およそ35メートルになるという岸壁がひろがり、その下方の岩屋に懸造で
立つお堂が毘沙門堂になります。
創建は、桓武天皇の御代;延暦二十年(801)、征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した記念として建てた
お堂です。
別當達谷西光寺は、翌年の延暦二十一年(802)に、別当寺として建てられたお寺です。以後、達谷窟毘沙門堂を
根本道場として、その神域に建つ諸堂と別當達谷西光寺の境内に建つ諸堂などからなる神仏混淆の社寺として発展
してきたそうです。
下は、岩屋に懸造で立つ毘沙門堂になります。
毘沙門堂の御朱印は、「達谷窟毘沙門堂」になります。
毘沙門堂の前には、辨天堂が建っていて、こちらの御朱印もいただくことができます。
辨天堂の御朱印は、「蝦蟇がヶ池辨天堂」になります。
毘沙門堂から金堂に行く参道の左手には不動堂があります。
不動堂の御朱印は、「姫待不動明王」になります。
毘沙門堂の西側には、大きな摩崖仏が彫られています。現在は胸から下が落ち、「岩面大佛」と呼ばれるように顔の部分だけ確認することができます。元は阿弥陀如来として刻まれたようです。
平成に入り再建された金堂には、本尊として薬師如来が祀られています。