寛永寺・上野東照宮・花園稲荷神社 上野の山御朱印めぐり
上野公園は、東京の上野駅前にある、通称「上野の山」と呼ばれる丘陵部に作られた、敷地約62万平方メートルの、大きな公園です。
国立博物館、上野動物公園、東京都美術館、東京芸術大学などを有する日本の芸術文化の中心地であるとともに、花見の名所でもあります。
上野の山の歴史は、寛永二年(1625年)に天海僧正が徳川家の安泰と江戸城鎮護のために、江戸城の鬼門にあたるこの地に寛永寺を創建した時に始まったと見てよいでしょう。西の比叡山に対して、東の比叡山ということで、山号を東叡山としたそうです。
江戸時代は、現在の上野公園全体が、ほぼ寛永寺の境内であったそうです。
慶応四年(1868)に起こった上野彰義隊の戦いで、寛永寺は、一部の建物を残し、多くが消失してしまい、壊滅的な状況に追い込まれたそうです。
そして明治8年(1875年)に再発足し、川越の喜多院の本地堂を移築して根本中堂とし、ようやく復興したものの、往時に比べ寺の規模は大幅に縮小しているそうです。
今回は、元は寛永寺の広い参道であった上野広小路側から入り、上野の山御朱印めぐりをしてきました。
清水観音堂
上野広小路側から階段を上り、衣一枚で寒風何するものぞと前を向く西郷さんの銅像
を右に見ながら100メートルほど進むと左手にあるのが清水観音堂です。
清水観音堂は、1631年(寛永八年)、天海僧正によって、京都の清水寺を模して建立
されたもので、上野公園最古の建物になります。
御本尊には、清水寺から送られた千手観音様が祀られています。
清水の舞台とは規模が違いますが、舞台(写真上)からは、不忍池に浮かぶような弁天堂が眺められます。
下の写真は、清水観音堂の舞台から江戸時代の浮世絵師、歌川広重の代表作の一つである「名所江戸百景」
の中で描かれた「月の松」を再現した松越しに見た弁天堂になります。
不忍池弁天堂
清水観音堂の舞台の横の階段を不忍池方向に下りていくと、両側に出店を従え、
正面に座るのが、弁天様、弁天堂になります。
天海僧正が不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ中の島を作らせ、そこに
弁天堂をたてたのだそうです。特に、音楽・芸能や福徳にご利益があるそうです。
五條天神社
弁天堂から清水観音の方向に戻り、一般道路を左へ曲がり、100メートルほど
行った右側にあるのが、五條天神社です。
こちらの縁起によりますと、日本武尊が東夷征伐のため当地を訪れた時、薬祖神二柱の
大神にご加護をいただいたことに感謝し、この地に両神を祀られたのが始まりだそうです。
天神様は、寛永18年に、合祀されたとのことです。
花園稲荷神社
五條天神社の隣に並んで鎮座するお稲荷さんが花園稲荷神社です。
創祀の年月は不祥ですが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷が正しい名称、また
石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われていたそうです。
彰義隊の戦争では最後の激戦地“穴稲荷門の戦”として知られているのが当地になります。
なお、花園稲荷神社と名付られたのは、明治になってからだそうです。
上野大仏
花園稲荷神社の10メートルほど続く朱色の鳥居を登っていくと上野の山に出ます。
ここを清水観音とは反対側、左側に進んでいくと、左手に時鐘堂、右手に通称、
大仏山と言われている小さな山が見えてきます。
時鐘堂(写真上)は、『花の雲 鐘は上野か 浅草か』と芭蕉の句にもあるように、
江戸の町に時を告げていたもので、現在も朝夕六時と正午に鐘が鳴るそうです。
大仏山には、元は像高約6メートルの釈迦如来坐像があったそうですが、度重なる罹災
により損壊し、現在では写真のように、顔面部のみがレリーフとして保存されています。
上野大仏に関しては、清水観音堂の方で「釈迦如来」の御朱印をいただくことができます。
大仏殿の跡地には、パゴダ様式の仏塔(写真下)が建立され、本尊として旧薬師堂に安置されていた
薬師三尊像が祀られています。
パゴダに関しては、清水観音堂の方で「薬師如来」の御朱印をいただくことができます。
上野東照宮
大仏山から、100メートルほど歩くと、すぐに上野東照宮の入口になります。
上野の東照宮は、1627年に建てられたもので、日光や久能山と同じように東照宮は、
徳川家康公を祀っています。下の写真は、正面の東照宮への参道になります。
現在の社殿は、三代将軍徳川家光公の時代に造営されたもので、金箔をふんだんに使用した華やかさのある建物です。
下の写真は、燈廊が並ぶ参道とまた参道からみた五重塔になります。
開山堂 (両大師堂)
東照宮から動物園の入り口を背にして上野駅方面に向かい、西洋美術館前を通り過ぎ、
一般道まで来たらそれを左折し300メートルほど進みますと、輪王殿と同じ敷地にある
のが寛永寺の開山堂に到着です。
開山堂は、寛永寺を開山した慈眼大師天海僧正を祀るお堂として、1644年
に建立されたものです。
そしてその後、天海僧正が、尊崇していた元三慈恵大師を祀ることにより、
両大師堂と呼ばれるようになったとのことです。
また境内には、有名な『御車返しの桜』や寛永寺旧本坊の表門、通称黒門と呼ばれた門があります。この黒門の正面扉には、彰義隊の戦争の激しさを物語る弾痕の後を見ることが出来ます。
根本中堂
元禄十一年(1698)、現在の上野公園大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応四年
(1868)彰義隊の戦争の際に焼失してしまいました。現在の根本中堂は、明治十二年に
川越喜多院の本地堂を現寛永寺の地に移築し再建したものだそうです。
御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像を秘仏としてお祀り
しているそうです。いただいた御朱印には、御本尊薬師瑠璃光如来様が祀られている
お堂”瑠璃殿”と書かれていました。
護国院大黒天
根本中堂から、根津の方向に300メートルほど下っていくと護国院大黒天に到着します。
護国院大黒天は、昔の東叡山寛永寺三十六坊の一つです。
上野の山が天海僧正により開かれた時、最初に建てられたのがこちらの釈迦堂と言われ、
”東叡山釈迦堂”とも呼ばれています。
また、三代将軍家光公から、国を護り、人々の福運を長く祈ってほしいと送られたのが、
藤原信実が書かれた“大黒天の画像”だそうで、以後、護国院大黒天として、信仰されてき
たということです。
七福神めぐりでは有名な「谷中七福神」の一つに数えられています。