三十三間堂・六波羅蜜寺・建仁寺・智積院・豊國神社 めぐり
京阪電車、京都七条駅から三十三間堂へ、そして東大路通りを北へ進み六波羅蜜寺、建仁寺まで、東大路通り沿いのご朱印めぐりの旅を紹介します。
三十三間堂
寺伝によりますと、三十三間堂の正式名は、“蓮華法院”でその本堂が三十三間堂に
なります。南北に伸びるお堂の柱間が、観音菩薩の変化身、三十三身にちなみ“三
十三”で出来ているのだそうです。
平安末期、後白河法皇が平清盛の財力により建立したものですが、火災により焼
失、現在のお堂は、鎌倉時代の1266年に再建されたものだそうです。
写真を見てもお分かりいただけるように、手前から向こうに一点透視的にきれいに伸びるお堂は壮大で、しかも爽快感が感じられます。
江戸時代には、西側の南端から北端へ向けて、120メートルの軒下を弓で射透す
“通し矢”の競い合いが人気を博したそうです。この長い軒下を弓で射通すというの
は、人間の力ではできそうにないように感じられるほど、圧倒的される景観です。
また堂内は、本尊である“千手観音坐像”、千体にのぼる等身大の観音菩薩立像、国
宝の風神、雷神像などが安置されています。
長く大きな本堂全体に、千体もの観音さまが整然と並ぶ姿は、パンフレットにも紹
介されていますが、本当に『仏像の森』に迷い込んだ感じがしてくる三十三間堂でした。
御朱印には、『大悲殿』と墨書きされていました。大慈悲の心を持たれた観音様
を祀るお堂ということと思います。
智積院
三十三間堂を東に進むとすぐに東大路通に出ます。ここの三差路にあるのが真言宗
智山派の総本山、智積院です。
川崎大師や成田山新勝寺、高尾山薬王院は、大本山にあたります。
寺伝によりますと、智積院は、弘法大師とともに真言宗中興の祖と言われる興教大
師を祀っている寺院です。
智積院は足利時代の中頃、興教大師ゆかりの根来山内(和歌山県)の寺院の一つと
して、長盛法印により創建された寺院で、天正年間(1573~)には、坊舎が2,000
以上もあったそうです。
しかし、秀吉の根来山攻めにより、山内の堂塔伽藍を灰燼に帰したそうです。 慶長6年(1601)、徳川家康により現在の京都東山七条に寺院を寄進され、五百佛山根
来寺智積院を玄宥僧正らが再興したのだそうです。
智積院は、興教大師の教え、根来時代の伝統を踏まえ、特に「学山」として教学の
研鑚や修行などを厳しく行い、また、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学
問寺」としての性格を持つ寺になります。
御朱印には、本尊である“大日如来”が書かれています。
豊国神社
豊国神社は国立博物館の北隣にあります。
豊臣秀吉がなくなり、東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られた後の慶長4年、中腹に秀吉公
を祀る豊国社が創建されたのが社の始まりだそうです。
朝廷から、「豊国大明神」の神号を賜り、社領1万石、境内域30万坪を誇る壮麗
かつ壮大な神社であったそうです。
しかし、大坂夏の陣において豊臣家が滅亡すると徳川家康により廃祀され、以後江
戸時代を通じ草叢に埋もれてしまっていたそうです。
明治にはいり明治天皇の御沙汰により再興が決定、明治13年には社殿が造営され
名実共に再興になったそうです。
境内には、伏見城の遺構と伝えられる見事な国宝の“大唐門”(写真上)が建ち、秀吉の栄華が偲ばれます。
御朱印には、中央に“関白”とあり、豊臣家の紋である”桐”そして馬印の”ひょうたん”が押されています。
また朱印の周りには“壽比南山・福如東海”と書かれています。
”南山”は精霊が住み、”東海”には仙人が住むとか、「寿命が長く、福が多い」という縁起言葉になります。
社によりますと、南山は、唐の都長安の南にあった“終南山”の事で、一名を“太
一”ともいわれ、天の中心にある太一星の精霊が住むという山だそうです。
また東海は、仙人が住むという蓬莱山のある場所で、「寿命も福も共に仙人と同じ
ように永く多かれ」という意味が込められているとのことです。
六波羅密寺
六波羅密寺は、五条通りの北側、東山区役所の裏手にあります。
踊り念仏で知られる空也上人が平安時代中期の天歴5年(951)に開創した十一面観
音を本尊とする真言宗智山派の寺院です。
寺史によりますと、流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、車に
安置して市中を曵き回り、青竹に茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じ
た茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて、ついに病魔を鎮められたという
ことです。
また平安後期、広大な境内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余
りに及んだそうです。
なお、“波羅蜜”とは彼岸(悟りの世界)に到ることをいい、“六波羅密”とは、この
世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための『布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智
慧』の六つの修行をいうそうです。
御朱印には、六波羅堂と書かれています。
建仁寺
六波羅密寺から北へ400メートルほどの所にあるのが、京都最古の禅寺である臨済
宗建仁寺派の大本山である建仁寺です。
開山は栄西禅師、開基は源頼家、鎌倉時代の建仁二年(1202)の開創で、寺名は、
当時の年号から付けられています。
寺伝によりますと、栄西は二回、宋にわたり、臨済宗黄龍派の禅を学び、日本に初
めて“禅”をもたらしました。当時、京都では比叡山の勢力が強大で、禅寺を開くこ
とは困難を極めましたが、栄西は九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条
政子の援助で正治2年(1200)に建立された鎌倉五山の一つ寿福寺の開山となります。
その2年後の建仁2年(1202)、源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点
として建立されたのが建仁寺になります。
また栄西は、宋から茶種を持ちかえり、日本で栽培することを奨励し、喫茶の方法
を普及した『茶租』としても知られています。
なお、建仁寺には、俵屋宗達が描いた“風神雷神図屏風”(国宝)がありますが、拝
観した時は、精巧な複製品が方丈の玄関に置かれていました。
また法堂の天井には、小泉淳作筆による今にも動き出しそうな“双龍”が描かれています。
いただいた御朱印には、『拈華堂』と書かれています。これは、建仁寺の法堂(法
を説くお堂)の別称です。『拈華微笑』という禅語からきているそうです。
寺に伝わる話によりますと、ある日、お釈迦さまが説法をされた時、一本の華を拈
って皆の前に差し出されたそうです。誰もその意味がわかりませんでしたが、ただ
一人“迦葉”(釈迦三尊の一人)だけがにっこり微笑んだそうです。
お釈迦さまの教えが、この時、以心伝心で迦葉に伝わったわけです。
法というものは、文字や言葉に頼ることなく、人の心から心へと伝えていくものと
いう基本的な考え方が『拈華』には込められているそうです。