相国寺・宝鏡寺・魯山寺 御朱印めぐり
この記事では、京都五山第2位に列せられる“相国寺”を中心に、その西側にある
門跡寺院“宝鏡寺”、また京都御所の東に位置し紫式部の邸宅があった場所と伝え
られる魯山寺を訪ねる旅を紹介します。
宝鏡寺
宝鏡寺は、堀川今出川の交差点から北に500mほど行った所にある臨済宗系の禅寺
です。
室町時代に、光厳天皇の皇女の華林宮恵厳が、伊勢の二見ヶ浦で魚網にかかった聖
観世音菩薩(本尊)を建福尼寺に安置し、建福寺を改めて宝鏡寺としたのが当寺の
開山として伝えられているそうです。
また後水尾天皇皇女の久厳尼が入寺して以降、多くの皇女が入寺する尼門跡寺院と
なり、百々御所(どどのごしょ)という所号を賜ったそうです。
寺へ入った皇女へ御所から多くの人形が贈られてきたため、これを保存しているそ
うです。そのため人形の寺として知られるようになり、一般からも人形が供養とし
て納められるようになっているそうです。
境内には人形の供養のために人形塚が建てられています。
いただいた御朱印には、尼門跡寺院ならではの5つの菊紋、そしてそれが花模様
として描かれていました。
相国寺
相国寺は、地下鉄今出川駅から徒歩3分程度の所にある臨済宗相国寺派大本山にな
る寺院です。
京都五山第2位に列せられる格式の高い寺院で、本尊は釈迦如来なります。
寺の案内によりますと、14世紀末に足利義満の開基により、夢窓疎石を開山とし
て、創建されています。
“相国”は「しょうこく」と読みますが、この“相国”という言葉は、「国を助ける」
「国を治める」という意味だそうで、“左大臣”のことをいうそうです。
左大臣である義満が建てた寺と言うことで“相国寺”と名付けられたそうです。
なお、義満により建てられた金閣寺、義正により建てられた銀閣寺とも相国寺の塔
頭寺院になるそうです。
相国寺はたびたび火災に遭い創建当時のものは残っていませんが、慶長十(1605)
に豊臣秀頼の寄進により再建された法堂は最古の法堂として重要文化財に指定され
ています。
いただいた御朱印には、本尊の”釈迦如来”と書かれていました。
魯山寺
魯山寺は、京阪電車「神宮丸太町駅」から徒歩15分程度の所にある天台宗の寺院です。
天慶元年(938)に、延暦寺中興の祖である元三大師良源が開基した寺で、本尊は
阿弥陀如来になります。
参道正面に位置するのは元三大師堂で、この堂の本尊は元三大師になります。
寺のホームページを拝見しますと、こちらが紫式部の邸宅跡になります。
また源氏物語や紫式部日記はほとんどこの地で執筆されたと言うことです。
魯山寺の境内にあったと言われる邸宅は、紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔が建
てたものであり、式部はこの邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、
長元四年(1031)五十九歳ほどで死去したそうです。
境内には、有名な『めぐりあいてみしやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の
月かな』の歌碑(写真上)が建っています。
この歌は、つれない男を想う恋の歌かと思っていましたが、聞く所によりますと、
久しぶりに会ったのに早々と帰ってしまった幼友達の女性を、夜半に沈む月にたと
え、心から惜しんで詠んだ歌なのだそうです。
御朱印は、“元三大師”のものと“紫式部邸宅址”の2枚をいただいてきました。
元三大師の御朱印には「角大師」が押されています。
角大師は2本の角を持ち、骨と皮とに痩せた鬼の像です。伝説によりますと、元三大師が鬼の姿に化して疫病神を追い払った時の像だそうです。この角大師の像は、昔から魔除けの護符になっていたそうです。
もう一枚は、「紫式部邸宅址」 と書かれています。