松陰神社・東光寺・大照院 御朱印めぐり
萩は、萩藩36万石毛利氏の城下町として栄えた所です。また吉田松陰をはじめ明治維新胎動の地として多くの人材を輩出した所でもあります。
この記事では、毛利氏の菩提寺である東光寺と大照院、そして吉田松陰を祭神として祀る松陰神社の御朱印めぐりを紹介します。
松陰神社
松陰神社は、東萩駅から徒歩20分程度の萩市椿東にある神社で、吉田矩方命
(よしだのりかたのみこと)こと吉田松陰を祭神として祀る神社です。
明治23年(1890)、吉田松陰の実家、杉家の人々により吉田松陰の霊を祀る土蔵造りの
祠が建られたのが松陰神社の前身だそうです。
そして明治40年(1907)、伊藤博文と野村靖が中心となり、この祠を公のものとして創建
することを県に請願、県社の社格として創建されたそうです。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたものになります。
境内には、吉田松陰が維新をリードする多くの人材を育てた『松下村塾』が、
昔のままの姿で保存されています。
本殿の前には、吉田松陰が幽囚されていた旧宅も現存しています。
また境内には、安政6年(1859)、安政の大獄により捕われ江戸に護送される時に
詠まれたという「親思ふこころにまさる親ごごろ けふの音づれ何ときくらん」
という歌が刻まれた石碑が建てられていました。
いただいた御朱印には、“至誠”と書かれていました。
至誠とは「きわめて誠実なこと、その心」を意味します。
「至誠にして動かざるものは、いまだこれあらざるなり」(至誠をもって動かすことが
出来ないものはこの世にはない、誠なしでは動かせるものではない)という孟子の教え
を自分の信念として貫き通して処刑された吉田松陰、その至誠の心が現代の私たちの心
まで動かしているように思います。
東光寺
東光寺は、松陰神社から徒歩10分程度の所にある黄檗宗の寺院で、大照院と並んで毛利家
の菩提寺の一つになります。山号は護国山、本尊は釈迦牟尼仏になります。
元禄4年(1691)、3代藩主毛利吉就公の開基により、萩出身の名僧慧極を開山として創建
したのが始まりです。
吉就は黄檗宗に帰依して、京都の黄檗宗本山万福寺に範を求めて広壮な伽藍を建立しました。
総門(写真上)、三門(写真下)、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に
指定されています。
本堂である大雄宝殿(写真上)の裏には、三代藩主毛利吉就公から十一代までの
奇数代の藩主や夫人など関係者の墓があります。その手前にはおよそ500あると
いわれる家臣らが寄贈した石燈籠が御廟の荘厳な雰囲気を演出しています。
いただいた御朱印には「大雄宝殿」と書かれています。
黄檗宗では、お釈迦様のいらっしゃる所を“大雄宝殿”と呼ぶそうです。
東光寺の大雄宝殿には、本尊“釈迦牟尼仏”が安置されています。
大照院
大照院は、萩市椿にある臨済宗南禅寺派の寺院で、東光寺と並ぶ毛利家の菩提寺になります。
山号は霊椿山、本尊は聖観世音菩薩と釈迦牟尼如来になります。
大照院は、萩藩二代藩主毛利綱広公が、初代藩主毛利秀就の菩提をともらうために明暦二年
(1656)に建立した寺院になります。
その後、本堂などは火災により焼失、現在の建物は1750年代に再建されたものになるそうで、
本堂や庫裏、書院、鐘楼門(写真下)などは国の重要文化財に指定されています。
現在、本堂は平成29年完了予定の大修理を行っているさなかで、参拝は仮本堂にて行うこと
になります。
墓所は国指定の史跡になっていて、初代藩主秀就以下2代から12代までの偶数代の藩主と
夫人及び一族の墓があり、墓前には藩士が寄進した石灯籠が600基ほど並んでいます。
いただいた御朱印には、中国三十三観音霊場第二十番札所として“大悲殿”(観音様がいらっ
しゃるお堂)と書かれていました。