楽しい御朱印めぐり

御朱印めぐりの旅

高野山 御朱印めぐり
地域:

高野山 金剛峯寺 御朱印めぐり

高野山は、平安時代のはじめ弘仁7年(816)、弘法大師空海が嵯峨天皇よりこの地を賜り、真言密教の根本道場を開いたのが始まりです。 海抜1千mの山上に広がる高野山は、東西5.5キロ、南北およそ2キロの山上の盆地で、周囲は蓮の花のような地形をしています。
10世紀後期頃から大師入定信仰が生れ、高野山を弥勒浄土とする信仰や阿弥陀浄土とする信仰と合いまって、戦国大名から一般民衆に至るまで、多くの信仰を集めてきました。 2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界文化遺産にも登録されています。
高野山には、現在117の寺院があり、そのうち53のお寺は、宿坊寺院になっているそうです。

今回は、極楽橋からケーブルで高野山に入り、高野さんの宿坊(持明院)に一泊、徒歩とバスで高野山をめぐった御朱印めぐりの旅を紹介します。

高野山金剛峯寺

弘法大師は、讃岐(善通寺市)で生まれ15歳で京へ、20才で出家し、31才の時(804)に唐に渡り、都長安にて恵果和尚より正統密教を授かり『遍照金剛』の法号を与えられ、806年に帰国し、真言密教の普及に努めました。
そして816年、嵯峨天皇より高野山を賜り、真言密教の根本道場として金剛峯寺を開いたのが開創になります。

寺伝によりますと、「金剛峯寺」という名称は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』というお経より名付けられたと伝えられ、東西約60メートル、南北約70メートルの主殿(本坊)をはじめ、座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等があります。

金剛峯寺新

写真みられるように、主殿の屋根には、火災への備えとして水が入った樽がのっています。
寺内には狩野派の見事な襖絵や広い石庭などが設けられ、境内総坪数48,295坪の広大さと優美さを有しています。

金剛峯寺石庭

御朱印は、恵果和尚より授かった『遍照金剛』の法号が書かれています。

朱印 金剛ぶじ

金堂

総本山金剛峯寺という場合は、高野山全体をさします。
高野山は「一山境内地」と称し、高野山のいたる所がお寺の境内になるそうです。
その総本山金剛峯寺の本堂となるのが、山内の西寄りに位置する「壇上伽藍」と呼ばれる地区に
堂々とそびえる“金堂”になります。

金堂

高野山の重要な行事のほとんどが、金堂で執り行われるということです。
たまたま訪れた4月10日は、『大曼荼羅供』という法会が行われていました。
聞くところによりますと、この法会は金剛・胎蔵両曼荼羅を供養するもので、期限も古く、高野山
でも非常に重要な行事になるそうです。

金堂の本尊は、薬師如来になりますが、旧本尊は昭和の初めに火事で焼失、現在の本尊は、高村光雲
の作になるそうです。
こちらでいただく御朱印は、本尊の薬師如来になります。

朱印 金堂 

根本大塔

根本大堂は、金堂の右後方にある赤と白のコントラストがあでやかな多宝塔(1階平面が方形、2階平面
が円形の二重塔)で、昭和12年(1937)に再建されたものです。

高野山大塔

弘法大師が、この大塔を真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので、根本大塔(
こんぽんだいとう)と呼ばれています。
塔の中央には、胎蔵界大日如来像、その四方に金剛界四仏が安置されています。
ここでいただいた御朱印は、大日如来と書かれています。

朱印 根本大塔

壇上伽藍には、このほか国宝の不動堂や西塔と東塔、御影堂(写真下)などが立ち並んでいます。

御影堂

東塔の隣に建つ三昧堂の左前には、西行の手植えと伝わる桜の木が、大きなつぼみをつけていました。

東塔と三昧堂

大門

高野山の入口(西側)にそびえ、一山の総門になるのが大門です。
開創当時の門は、山火事や落雷等で焼失し、現在の建物は1705年に再建されたものだそうです。
二階二層門で、高さは25.1メートルあり、修行道場の入り口としての荘厳さを感じる建物です。
左右には運長作の金剛力士像が安置されています。
門前からの展望がすばらしく、条件によっては淡路島を望むことができるそうです。

高野山大門

奥の院

大門の対極に位置するのが奥の院です。
高野山の信仰の中心であり、弘法大師の御廟がある聖地になります。

奥の院入口

入口の一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える信長や秀吉など
諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に立ち並んでいます。

奥の院の一番奥が、弘法大師の御廟になります。

大師廟

弘法大師の御廟の右側には、信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂があります。
燈籠堂の内には、消えずの火として祈親(きしん)上人が献じた祈親燈、白河上皇が献じた白河燈、
祈親上人のすすめで貧しいお照が大切な黒髪を切って献じた貧女の一燈、昭和の時代にある宮様と
首相の手によって献じられた昭和燈が燃え続け、その他たくさんの方々の願いが込められた燈籠が
奉納されています。

 奥の院では、御詠歌付き、見開きで御朱印をいただきました。
御朱印には、“弘法大師”と書かれています。
御詠歌は「ありがたや 高野の山の 岩かげに 大師はいまだ おはしますなる」と書かれています。

朱印 高野山奥の院

苅萱堂

苅萱道心(かるかやどうしん)と石道丸(いしどうまる)、そして母千里の親子三人の話は、
悲話として謡曲などで取り上げられ広く知られています。
苅萱堂は、苅萱道心が出家し、実の子である石道丸とともに父子を名乗ることなく仏道修行に
明けくれた寺と伝えられています。

刈萱堂

物語は、高野山に出家した父親を追って母子が麓まで来るが、女人禁制のために母を残し、
息子石童丸だけが入山したそうです。修行中の父は、いつわりの父の死を石道丸に告げ、
石道丸は母の元に戻りますが、旅の疲れから母はなくなっていました。
石道丸は高野山に戻って出家し、実の父とは知らないまま、苅萱道心のもとで厳しい修行を
積んだという高野聖のせつない物語になります。
堂内には“絵で見る石道丸物語”が展示されています。

石道丸

本尊の厄除親子地蔵尊は、道心と石童丸の合作の地蔵と伝えられています。
御朱印にも、この“地蔵尊”が書かれていました。

朱印 苅宣堂

持明院 

奥の院の入り口から徒歩3分、蓮花谷バス停の近くにあるのが、今回お世話になった宿坊、
小坂坊持明院です。

持明院入口

寺の縁起によりますと、およそ900年前の保安年間に持明房真誉大徳の開祖で始まり、その
名をとって寺名となったそうです。

宿坊石庭

持明院は、石庭や見事な襖絵などがある欧米人にも人気の高い静かな宿坊で、料理は伝統的な
精進料理が各部屋(写真下)に運ばれてきます。
精進料理ということですが、食べ応えがあり、ビールをお共に残らずいただいてきました。

朝は6時半から35分間、お勤めに参加し、先祖の永代供養をしていただきました。
本尊は、延命地蔵菩薩で、いただいた御朱印にも“延命地蔵尊”と書かれています。

朱印 地明院

金剛三昧院(多宝塔)

寺の紹介によりますと、北条政子が、夫・源頼朝と息子・実朝の菩提を弔うために建立した寺院だそうです。
「小田原通り」から、徒歩3分の静かな環境にある宿坊寺院です。
境内には、国宝の多宝塔が映えるいにしえの面影を色濃く残した名刹で、鎌倉時代の風雅をそのままに伝
える格別な雰囲気がうかがえます。

三昧院多宝塔

本尊は、恋愛成就の仏様としてしられる愛染明王になります。

金剛三昧院

御朱印は、本尊の“愛染明王”と書かれています。

朱印 金剛三昧院

蓮華定院

 

蓮華定院(れんげじょういん)は、女人堂に近いところにある宿坊、寺院です。

 

蓮華定院入口

関ヶ原の戦いに敗れ、高野山に配流となった真田昌幸・信繁(幸村)親子が滞在した寺院です。

高野山における真田家の菩提寺であり、寺のいたるところに真田家の家紋“六文銭”が見られます。

蓮華定院山門

 

下は整備された石庭と本堂になります。

 蓮華定院本堂

 

寺の裏側に回ると、信繁の兄、信之などの墓もあります。

蓮華定院墓

 

いただいた御朱印には、「阿弥陀如来」と書かれていました。

蓮華定院朱印

女人堂

高野山には、七つの登り口があり、高野七口と呼ばれていました。
明治5年(1872)に女人禁制が解かれるまで、女性の立ち入りが厳しく制限され、そのため
各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれました。

女人堂前

写真にある現在の女人堂は、唯一現存する建物です。

女人堂

御朱印には、祀られている“大日如来”が墨書きされていました。

朱印 女人堂

女人堂から路線バスに乗り高野山駅へ、ここから高野山ケーブルに乗り5分で極楽橋へ、極楽橋
から南海電車の特急に乗りおよそ80分、大阪難波駅まで帰ってきました。

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