知恩院・高台寺・清水寺・青蓮院・八坂の塔 御朱印めぐり
地下鉄東西線の東山駅から青蓮院に向かい、知恩院から丸山公園を抜け八坂神社、ねねの道から高台寺、八坂の塔、そして清水坂を清水寺へ向かう東山メインルートの御朱印めぐりの旅を紹介します。
青蓮院
地下鉄東西線東山駅を降り、東へ進み神宮道を平安神宮とは反対方向、南に進む
と楠の大木が迎える青蓮院が見えてきます。
青蓮院は、三千院、妙法院と共に天台宗の三門跡の一つに数えられ、古くから皇室と関わりの深い門跡寺院です。
開基は、伝教大師最澄であり、比叡山延暦寺を開くにあたって、僧侶の住坊を幾つも作りましたが、
その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。
寺伝によりますと、平安時代末期に、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が帰依され、
第七王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院としたのが門跡寺院として
の始まりになります。
その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族であるか、五摂家の子弟に限られていました。
江戸時代の天明八年(1788)、大火によって御所が炎上した時に、後桜町上皇は青蓮院を仮御所として
避難されてこられたそうです。
青蓮院は、栗田口に近かったことから、栗田御所とも呼ばれたそうです。下は、瀟洒な客殿になります。
青蓮院の主庭、室町時代の相阿弥の作と伝えられ、粟田山を借景にしてその山裾
を利用した池泉回遊式の庭になります。
御朱印は、門跡寺院として大きな菊紋が押されていました。
また開創の時からの本尊である「熾盛光如来曼荼羅」の“熾盛光如来”が墨書きされていました。
知恩院
青蓮院の南隣にあるのが知恩院です。
知恩院は、浄土宗総本山の寺院であり、開基は浄土宗の祖、法然になります。
本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)になります。
法然は、13歳で比叡山に入り、叡空に師事し天台の学問を学び、法然房源空と名をあらため、
求道生活に入ったそうです。
時は平安末期、地震などの災害や飢餓、疫病がはやり、民衆は不安と混乱の中にいた時代です。
しかし当時の比叡山を中心とした仏教は、貴族の仏教と化し一般民衆を救う力はありませんでした。
そうした仏教に疑問を抱いた法然は、『南無阿弥陀仏』と一心に唱えることにより、すべての人が
極楽往生できるという『専修念仏』の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りたのは、
1175年、43歳の時であったそうです。
法然は、現在の知恩院勢至堂付近に住み、念仏の教えを説くという生活を送ったそうです。
五木寛之のベストセラー『親鸞』には、浄土真宗の祖、親鸞聖人も法然に師事し、法然の教えを
聞くために、こちらに足しげく通ったことが書かれています。
現存の三門、本堂(写真上)をはじめとする壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってから
のことになります。
浄土宗に帰依していた徳川家康をはじめとする徳川家の支援により、寺は大きく発展してきました。
いただいた御朱印は、本堂の本尊である「法然上人」と書かれています。
そして御詠歌の御朱印をいただきました。
御詠歌は、『草も木も 枯れたる野辺に ただひとり 松のみ残る 弥陀の本願』になります。
「草木が枯れてしまった冬の野辺にただ松だけが緑を放っているように、全ての教えが廃れてしまっても、
阿弥陀如来の本願力は永遠に輝き続けるのであります」ということかと思います。
阿弥陀仏の本願を信じ、『南無阿弥陀仏』と一心に唱えることにより、浄土への往生を期することを
教旨とする浄土宗ならではの御詠歌と思います。
八坂神社
知恩院を出て南へ進むとすぐに丸山公園に入ります。丸山公園の西隣にあるのが、
京都三大祭りの一つ“祇園祭”で知られる八坂神社です。
下の写真は、本殿前にある舞殿になります。
社伝によりますと、八坂神社の創祀は、高句麗の使い伊利之が来朝した斉明天皇2年(656)と言われています。
また八坂神社の主祭神は『すさのおのみこと』になります。
『すさのおのみこと』は高天原を追われる運命にありながら、出雲にたどり着き、八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)を
退治した英雄神です。
有名な祇園祭は、平安時代の初期、貞観11年(869)疫病が流行した際これを鎮めようと、祇園社に祀られ
ているこの強い英雄神、『すさのおのみこと』を頼って始まったのが祇園祭であると言われています。
当時、平安京の庭園であった神泉苑に、66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って災い除去
を祈ったそうです。
このように、豪壮かつ華麗な祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。下の写真は、
祇園祭に舞殿で待機する神輿の写真になります。
また本殿は、国の重要文化財に指定されています。
この建物は、別棟であった二つの建造物、本殿と拝殿とを一つの屋根で覆ったもので、
他に類例のない建築様式であることから、「祇園造」とよばれています。
いただいた御朱印の一つは、青い龍の姿絵が入った『青龍』の御朱印です。
これは、東西南北の四方を守護する聖獣「青龍」「白虎」「朱雀」「玄武」の中の一つを表しています。
八坂神社が鎮座する東山の地は、「青龍」の宿る所であり、「龍穴」があると言われています。
境内には、龍穴に通じているとされる神水がわき出ているところもあるそうです。
そして、「祇園社」の御朱印です。
長楽寺
八坂神社の南側の道を丸山公園に沿って東へ歩くと長い階段が見えてきます。
その先が長楽寺になります。
長楽寺は、延歴24年(805)桓武天皇の勅命によって、伝教大師を開基、観世音菩薩を本尊として
創建されました。
当初は天台宗・比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、その後室町時代の初期、当時の一代
の名僧国阿上人に譲られ、時宗(宗祖一遍上人)に改宗されたということです。
古来より「洛中随一絶景の霊地」としてその景勝を愛でられ、「今昔物語」、西行法師(当寺に入て修行)
の「山家集」「平家物語」など、平安時代より有名な古典に数多く記されているそうです。
境内には、素朴な石仏も並んでいました。
また江戸時代の有名な文人、頼山陽が「京の四季」で、長楽寺のしぐれの紅葉を詠い、
遺言により当山に葬られているそうです。
長楽寺は、平清盛の娘徳子・建礼門院が髪をおろされた寺として知られています。
元暦2年(1185)、壇ノ浦において平家が敗れ、安徳天皇(御歳8才)は祖母(二位の尼)に抱かれ入水しました。母、建礼門院は入水したものの捕らわれ、この寺で髪をおろし、29歳で出家し、
その後、大原の寂光院に移られました。
いただいた御朱印には、本尊である観世音菩薩を安置する“大悲殿”と書かれていました。
高台寺
長楽寺から丸山公園沿いを戻り、ねねの道に入りますと、
間もなくして左手に緩やかな趣ある高台寺の台所坂が見えてきます。
豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が
慶長11年(1606)開創した寺になります。
寛永元年(1624)、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号しました。
現在、霊屋に秀吉と北政所を祀り、北政所像の下はその墓所となっているそうです。
須弥壇と厨子は華麗な蒔絵装飾が施され、桃山美術を代表する「高台寺蒔絵」として知られていて、
開山堂を中心に東西に広がる池庭は小堀遠州作と伝えられています。
いただいた御朱印には、“佛心”と書かれていました。
八坂の塔(法観寺)
高台寺の南側駐車場から目に飛び込んでくるのが、東山のシンボルともいうべき法観寺の八坂の塔です。
法観寺は、臨済宗建仁寺派の寺院であり、山号は霊応山、本尊は大日如来を中心とする五智如来で、
八坂の塔(五重塔)の一階に安置されています。
八坂の塔は、聖徳太子が建立したと伝えられています。
応仁の乱で焼失してしまいましたが、それ以前は四天王寺式伽藍配置の大寺だったそうです。
現在の塔は、足利時代の1440年に建てられたもので、高さ46メートルの本瓦葺きの趣ある塔です。
いただいた御朱印には、本尊である“五智如来”と書かれていました。なお五智如来とは、
5つの知恵を5体の如来にあらわしたものだそうです。
清水寺
八坂の塔から八坂通りを案内に沿って清水寺に向かいます。
このあたりからは京都らしい落ち着いた中に華やかさのある土産物屋や飲食店が立ち並んできます。
産寧坂(三年坂)の階段を上り、清水坂に入るとそこは清水寺の参道、
お店や観光客でにぎやかな通りになります。
参道を上りつめると、音羽山を背に仁王門、西門、三重塔が迎えてくれる清水寺の境内になります。
寺の案内によりますと、この舞台は錦雲渓の急な崖に最長12メートルの巨大な欅の柱を並べ、
“懸造り”という手法で釘を一本も使わずに組み上げた木造建築物だそうです。
本堂から張り出した舞台はちょうど4階建てのビルの高さにあたり、京都市街の眺望が見事です。
面積はおよそ190平方メートルのヒノキの板を敷き詰めた『檜舞台』です。
この舞台はもともと、ご本尊の観音様に芸能を奉納する場所で、平安時代から雅楽や能、
かぶきなど様々な芸能が奉納されてきましたし現在でも舞台奉納が行われているそうです。
清水寺は、奈良末期778年に僧延鎮が開山し、平安建都間もない延暦17年(798年)坂上田村麻呂
が仏殿を建立したと伝えられています。
山号は音羽山、本尊は千手観音であり、西国三十三所観音霊場の第16番札所になっています。
現在の建物の多くは、寛永8年から10年(1631年から1633年)、徳川家光の寄進によって再建された
ものだそうです。
昔から思い切って決心することを「清水の舞台から飛びおりる」といいますが、その語源となったのが、
本堂の前の舞台になります。
春の桜と新緑、秋の紅葉など四季折々の美しさを背景にした懸造りの本堂は、京都観光ではなくては
ならないものになっています。
また本堂東側の石段を下りた先には寺名“清水”の由来でもある
名水が3本の筧(かけい)から流れ落ちており、「音羽の滝」と呼ばれています。
御朱印には、観音様を祀るお堂を表現した『大悲閣』が書かれていました。