世田谷線沿い御朱印めぐり
閑静な住宅街世田谷、今回は世田谷八幡宮から豪徳寺、そして松陰神社から北澤八幡神社、
また三軒茶屋にある教学院の五つの寺社を訪ねてきました。
世田谷八幡宮
世田谷線宮坂駅の西、徒歩2分程度の所にあるのが世田谷八幡宮です。
神社の起こりは、平安時代初期、源義家が後三年の役の帰り道、戦勝を祝して弓矢・
旗を納めて勧請したのが始まりと言われています。
後に世田谷城主七代目の吉良頼康が天文15年(1546)に社殿を再興させて発展さ
せたそうです。この天文15年が実質的な創建の時と考えられています。
ご祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后なります。
世田谷区便りによりますと、こんな話も伝わっています。
吉良頼康の頃、狛江の岩戸に鬼五郎左衛門という農民がいたそうです。
ある日、彼が領主に従って鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣したとき、ちょうど
北条氏の奉納相撲が行われていました。鬼五郎左衛門は飛び入り参加して
優勝し、懸賞の八幡宮の御神体をもらい、それを世田谷八幡宮に勧請した
と伝えられています。
今でも、毎年秋の例祭には、東京農大相撲部による奉納相撲が行われて
いますし、境内には、土俵もできています。
いただいた御朱印にも、相撲取りの印が押されてありました。
豪徳寺
世田谷線宮坂駅から東へ3分の所にあるのが曹洞宗のお寺、豪徳寺です。
大老井伊直弼の墓や招き猫発祥の地として有名なお寺です。
豪徳寺は、1633年彦根藩世田谷領の成立後、井伊家の菩提寺にとりたてられ、
仏殿や三世仏像、達磨・大権修理菩薩像、石燈籠などが当時のままに現在に伝えられています。
豪徳寺が招き猫発祥の地、井伊家の菩提寺にとりたてられたのには、猫にまつわる
言い伝えがあるそうです。
江戸時代初期、彦根藩藩主、井伊直孝が鷹狩りの際に、この寺の前を通りかかると、
寺の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため寺に立ち寄った所、幸いにも
雷雨を免れることが出来たそうです。そして、和尚さんの説法に感激した直孝公は、
当時荒れ寺であったこの寺に寄進し、復興させたそうです。
招福観世音菩薩を祀る招猫殿(写真上)の横には、願が成就したお礼として、
数多くの招福猫が奉納されています。
この縁で豪徳寺は井伊家の菩提寺になったといわれ、幕末に桜田門外の変で暗殺された
大老井伊直弼の墓も豪徳寺にあります。
御朱印には、本尊である“釈迦如来”を表す『釈迦牟尼仏』と書かれています。
松陰神社
豪徳寺から東におよそ500メートル、目と鼻の先に、安政の大獄で井伊直弼に
処刑をされた吉田松陰が眠る松陰神社があります。毎晩地下で、両者がせめぎ合い
をしているようにも思いますが、そこは、志高く日本国を想っておられた二人、
そして志半ばの不幸、その後の日本の発展と今を草葉の陰から、どう見ておられ
るのでしょうか。
社によりますと、安政の大獄で吉田松陰がなくなったのが、安政6年(1859年)、
その四年後の文久3年、門下生であった高杉晋作や伊藤博文などによって、世田谷区
若林の地に改葬され、明治15年になって、神社として御霊をお祀りすることになっ
たそうです。 なお今日の社殿は、昭和2年に造営されたものだそうです。
吉田松陰は、2年間という短い期間でしたが萩において『松下村塾』という私塾を開き、
身分や職業に関係なく講義をし、その中から木戸孝允や山形有朋など維新の志士たちが
育っています。
この萩の松下村塾と同じ田舎の小さな村の公民館のような建物が、境内に復元されていました。
萩から江戸の伝馬町送りになる闘鶏駕の中で詠んだという
「親思う 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
また、処刑された時の辞世の句と言われる
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
が思い出されます。
これらの句を見ても、吉田松陰の人間愛と祖国愛があふれ出ているように思います。
30歳、志半ばでの無念の死、世の中の流れに流される我が身、心新たにして松陰神社
を辞去した次第です。
北澤八幡神社
松陰神社から淡島通りに出、代沢十字路で茶沢通りを下北沢方向に進むと10分ほどで、
北沢八幡神社に到着します。
社の由緒によりますと北沢八幡神社は、今からおよそ500年ほど前の文明年間(1469~84)に、
この地の守護神として、世田谷城主であった吉良家の勧請により創建されたそうです。
祭神に、応神天皇、比売神、神功皇后、仁徳天皇を祀り『北沢八幡宮』とも呼ばれています。
写真上の現在の弊殿、拝殿は大正九年に再建されたものだそうです。
教学院 太子堂 (目青不動)
教学院は、三軒茶屋駅から徒歩5分、東京都世田谷区太子堂にある天台宗の寺院です。山号は竹園山、本尊は
阿弥陀如来、正式名称は「竹園山最勝寺教学院」になります。「目青不動」を安置する寺として知られています。
創建は応長元年(1311)、玄応和尚によって開かれた寺と伝わっています。
不動堂(写真下)には、秘仏である目青不動が安置されています。目青不動は、明治時代に麻布にあった観行寺
という寺が廃寺になったことに伴って、教学院に遷されたそうです。
いただいた御朱印には、「目青不動明王」と書かれていました。