『日光』とは、男体山の古い呼び名である二荒山(ふたらさん)の“二荒”を音読みして「にこう」、これを日光菩薩信仰の影響などもあり、『日光』へ変化してきたものと言われています。
日光山内にある二荒山神社、東照宮、輪王寺は、現在それぞれ別法人に分かれていますが、江戸時代まではこれらを総称し“日光山”と称していました。明治の神仏分離令により二社一寺に分かれたわけです。
今回は、東武日光駅から徒歩で日光山内にある二社一寺を巡ってきました。
日光山内の入り口は、二荒山神社創建のために神によってかけられたと伝えられる“神橋”になります。聖地日光の表玄関を飾るに ふさわしい朱塗に映える美しい橋が神々しく参拝者を迎えてくれます。
神橋はアーチ形の木造反り橋で、その構造から錦帯橋(山口県)・猿橋(山梨県)と並んで日本三奇橋の一つに数えられています。
輪王寺
輪王寺は天台宗の寺院で、本尊は千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の三体仏になります。
明治の初め、神仏分離令が出される前は、『日光山 輪王寺』として、日光山全体が統合
されていたそうです。
現在の輪王寺は、本堂である三仏堂や大猷院、常行堂や慈眼堂などのお堂や15の子院
から成り立っていますが、神仏分離令により無理やり切り分けられた影響か、各堂宇は
山内の各地に点在している状況です。
寺伝によりますと開基は天平神護二年(766)、勝道上人が神橋の近くに千手観音を安置
する寺として四本竜寺を建立したのが始まりということです。
四本竜寺
現在の四本竜寺は神橋の北側に三重塔と共に、ひっそりとたたずんでいます。
御朱印は本尊の千手観音、これは護摩堂の方でいただくことが出来ます。
三仏堂(金堂)
三仏堂の入口にあたる西側の門が黒門になります。柱から瓦まで、すべて黒で塗られ
ていることから、黒門と呼ばれています。
黒門には、御朱印授与所があり、こちらでいただいた御朱印には“日光山輪王寺”と
墨書きされていました。
三仏堂は輪王寺の本堂になるお堂であり、東日本では最も大きな木造建築物になります。
現在の建物は江戸初期に建てられたものですが、平安時代の天台密教の形式を今に伝える
数少ないものだそうです。
訪れた時は、丁度平成の大修理のさなか、残念ながら実際の建物の写真をとる事はできま
せんでした。写真は、三仏堂の実物大の絵を写したものになります。
江戸時代初期に作られたと言う本尊である千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音像は拝観する
ことができます。この三仏は、高さが8mを越える木彫大座像で3体とも金色に光り輝いて
います。 こちらでいただいた御朱印には、“金堂”と墨書きされていました。
大護摩堂
三仏堂の北側にあるのが、大護摩堂になります。
ここは、護摩祈願所で、本尊は、平安時代中期に作られた五大明王になります。
護摩堂では、毎月3日と18日に、一般も参加できる写経会が開催されているそうです。
こちられいただいた御朱印には、“五大尊”と書かれていました。
本地堂(薬師堂)
本地堂は、神仏分離令により輪王寺と日光東照宮が切り離され、東照宮の境内
(陽明門に向かって左)にありますが、薬師堂であり寺院になるそうです。
お堂の天井には、龍の水墨画が書かれていて、その下で拍子木を打つと床と天井の間
で共鳴が起こり、澄んだ龍の泣き声が聞こえてくるようになっています。
いただいた御朱印には、輪王寺、薬師堂、鳴龍と墨書きされていました。
常行堂
二荒山神社の南側、輪王寺大猷院に入る手前にあるのが、常行堂になります。
現在の常行堂は、江戸初期建てられたものですが、三仏堂などと同じように天台密教の
建築様式を今に伝える建物です。
常行堂は、修行僧が念仏を唱えながら本尊の阿弥陀仏の周りを巡る事により、悟りを開き
極楽浄土のいると言う阿弥陀仏に出会うための長期間の修行が行われるお堂になります。
いただいた御朱印には、本尊の“阿弥陀如来”と書かれていました。
大猷院
日光山内の最も北西に位置するのが、徳川家光公の墓所である大猷院になります。
「家康公の廟所(東照宮)をしのいではならない」という家光公の命により、彩色や
彫刻は押さえられておりますが、杉木立の中に溶け込んだ落ち着いた華やかさを持っ
た国宝や重要文化財に指定された堂宇が立ち並んでいます。
まず入り口は仁王門からになります。ここには、金剛力士像が祀られています。
ここから、家光公の墓どころの入り口まで大小六つの門を通って行きます。
下の写真は、夜叉門になります。
下の写真は、唐門ならびに大猷院の本殿(国宝)になります。
唐門は、隅々まで繊細な彫刻と金、白を基調とした彩色が施されており、
その意匠装飾は大変気品のあるものです。
いただいた御朱印には、”大猷院”と書かれていました。
大猷院境内の最も奥に位置するのが、家光公の墓に通じる皇嘉門になります。皇嘉門は、中国、明の建築様式を取り入れたその形から「竜宮門」とも呼ばれてる美しい建物です。
日光二荒山神社
二荒山神社は、男体山(古く二荒山という、標高2,486m)を御神体として祀る神社です。境内は、3,400ha、日光連山を始めいろは坂や華厳の滝もふくまれる広大さを誇っています。
奈良時代の末、二荒山に神霊を感じた勝道上人が、大谷川の北岸に四本竜寺を建て、
延暦9年(790)に本宮神社を建てたのが二荒山神社のはじまりになります。
また、天応2年(782)、勝道上人は二荒山に登頂し、山頂に小さな祠を祀りましたが
これが二荒山神社奥宮になります。
そして延暦3年(784)、二荒山中腹の中禅寺湖北岸に中宮祠をまつり、ほぼ現在の形
になったそうです。
二荒山神社は早くから下野国一の宮としてうやまわれ、鎌倉時代以後は、関東の守り
神として幕府、豪族の信仰をあつめたそうです。
本社は、日光東照宮の西奥に鎮座し、日光山内の社寺のうちでは最奥に位置します。
元は現在の本宮神社の地(山内東手前、神橋の近く)に鎮座していましたが、1617年
(元和3年)の東照宮造営の際に現在地に移転し、社殿も一新されたそうです。
二荒山神社の主祭神大己貴命(おおなむちのみこと)の別名は大国主命(おおくにぬしのみこと)で、
昔から「だいこく様」と呼ばれて招福、繁盛、縁結びの神様として親しまれています。 境内にある大国
殿には、幸運の「招き大国」と呼ばれるだいこく様が祀られています。
また殿内には、大太刀「太郎丸」が展示されています。
大国殿でも御朱印をいただくことが出来ます。
日光東照宮
日光東照宮は、元和3年(1617)、徳川家康公を神格化した東照大権現を祀るために
創建されました。
家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言になるそうです。
家康は遺言に「遺体は久能山に納め、日光に小さな堂を建てて神として祀る事、そして
八州の鎮守となろう」と述べたそうです。
戦国の世を平定し、これからの日本の恒久的平和を守ろうとしたのだそうです。
五重塔を左手に見ながら境内に入ると仁王像が安置されている表門をくぐっていきます。
陽明門の手前には、8枚からなる猿の一生の彫り物が施された神厩舎があります。
これは、猿を通して人間の一生の平和な過ごし方を説いたものになるそうです。
この中の一つに有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿があります。
これは、「幼少期には悪事を見ない、言わない、聞かない方がいい」という教えだそうです。
一日いても見あきないため「日暮らし門」とも呼ばれる“陽明門”は、残念ながら平成の
大修理中で、拝観はできませんでした。写真は、唐門(国宝)とその奥の本社(国宝)になります。
唐門は、全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、細かい彫刻が施されています。
周囲の回廊(国宝)は花や鳥の彫刻、それらが極彩色に彩られています。
家康公の御廟に通じる門には、左甚五郎作と伝えられる“眠り猫”の彫刻(国宝)があります。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われています。