楽しい御朱印めぐり

特別なご利益がある寺社の御朱印

五百羅漢を祀る寺院の御朱印めぐり
地域:

五百羅漢とは、釈迦入滅後の経典結集の時に集まった500人の弟子、聖者のことを言います。
この聖者の方々は、我々一般人とは違い、俗世間の感情や欲望は超越していますが、今だ菩薩の境地には達していない、いわば我々と仏さまの中間に位置する方々です。その分、親しみが持てる存在と言えるかもしれません。
五百羅漢を祀るようになったいきさつは各お寺様々ですが、そんな五百羅漢様を祀る寺院を巡る御朱印集めの旅を紹介します。

 

 

羅漢寺 (大分県)

 

羅漢寺は、大分県中津市本耶馬渓町にある曹洞宗の寺院です。青の洞門で有名な国定公園耶馬渓
の一角にあり
、山号は耆闍崛山(ぎしゃくつせん)、本尊は釈迦如来になります。
寺の歴史によりますと、大化元年(645)にインドから来た法道仙人が開いたとされる寺ですが、
詳細は不明です。
その後、延元二年(1337)に、臨済宗祖の円龕昭覚が十六羅漢の画像を描いて洞窟のなかに掲げ
たことから、羅漢寺と呼ばれるようになったといわれています。

 

羅漢寺山門

 

 

羅漢寺は、羅漢山の中腹にあり、このあたりは洞窟が多い所で、羅漢寺の本堂(写真下)も
山門(写真上)も洞窟と一体となって建てられています。

 

羅漢寺本堂

 

羅漢寺境内

 

羅漢寺と言われるように、洞窟の境内には、3770体にものぼる羅漢像や地蔵などの石仏があります。
下の写真は、羅漢堂とその中に安置されている羅漢像です。

 

羅漢堂

羅漢寺五百羅漢

 

いただいた御朱印には“五百羅漢”と書かれていました。

 

朱印 大分五百羅漢

 

羅漢寺の近くには、山国川に面しそそり立つ競秀峰の裾に位置する“青の洞門”があります。

 

耶馬渓青の洞門

 

諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で
通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢によって
資金を集め、石工たちを雇ってのみと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる洞門です。
今は、一方通行ですが、車が通行できる風光明媚な観光名所になっています。

 

青の洞門2

 

なお、有名な菊池寛の『恩讐の彼方に』は、この禅海和尚をモデルに書かれた小説です。
作品では、江戸で殺人を犯し、道を誤った若者が、改心し仏に帰依し“了海”という僧に
なり償いの道をもとめる中、青の洞門の掘削に半生を捧げ、大変な苦労の末に見事、
難所にトンネルを掘り上げ、最後は親の敵と狙う者の心をも動かしたという人の道を
説いた小説です。
この了海が目指した所も羅漢寺でしたが、羅漢寺に出かける方は、短編小説ですから
“恩讐の彼方に”を読んで見るのもよいと思います。

 

 

喜多院 (埼玉県)

 

喜多院は、埼玉県川越市にある830年、慈覚太師円仁により創建された天台宗のお寺です。
その後、1296年、伏見天皇が尊海僧正に命じられて、比叡山の18代天台座主を務めた慈恵
大師を祀り、関東天台宗の中心として、再興されたそうです。
慈恵大師を祀り、“厄難消除”の信仰は、鎌倉時代に盛んになり、今も『厄除けの大師さま
川越大師』として、信仰を集めています。

 

多喜院

多喜院本殿

 

喜多院は、国内の代表的な五百羅漢を祀るお寺として、日本三大五百羅漢寺の一つに数
えられるお寺です。

 

多喜院五百羅漢

 

こちらの羅漢像は、1782年から1825年にかけて建立された石仏で538体が境内の一角に
鎮座していますが、どれ一つとして同じ顔のものはありません。
屋外にあり、手に取るよう間近で羅漢様を拝観できるのが、こちらの楽しみです。
ちなみに私のお気に入りの羅漢様は、こちらの方です。

 

多喜院五百羅漢お気に入り

 

皆さんもお気に入りの羅漢様や自分にの羅漢様を探してみるのも一つの楽しみかもしれません。

いただいた御朱印は、”厄除け”の大師さま『川越大師』と墨書きされていました。

 

喜多院ご朱印

 

 

 

天恩山五百羅漢寺 (東京都)

 

東京の目黒にある天恩山五百羅漢寺は、元々は元禄八年(1695)松雲元慶禅師により、
江戸の本所に建立されたお寺で、江戸時代は「本所の羅漢さん」と親しまれていたそうです。
明治維新後の苦難(廃仏毀釈)を乗り越え、昭和56年に現在のお堂が完成、
目黒の羅漢さん」としてよみがえったそうです。

 

目黒五百羅漢寺入口

目黒五百羅漢寺

 

ここに安置されている木彫りの五百羅漢像は、松雲元慶禅師が、江戸の町を托鉢して集めた浄財を基に、十数年の歳月をかけて創り上げたものだそうで、その彫刻としての見事さには驚かされます。
羅漢堂に安置されている五百羅漢像は、寄木造りで高さは78㎝~90㎝、そして一体一体、顔も違うし名前もつけられています。それに何より、一人ひとりの羅漢さんが、例えば金光恵尊像“わずかな水も流れれば石を穿つ”のように、教えを持っているのが特徴です。自分自身の助けになりそうな羅漢さんを探してみるのもよいと思います。なお、残念ですが、羅漢像は撮影禁止ということで写真はありません。

 

朱印 目黒羅漢寺

 

 

 

大円寺 (東京都)

 

大円寺は目黒駅からすぐの行人坂の中ほど、雅叙園の手前にあるお寺です。
大円寺は、出羽三山の一つ、湯殿山の修験僧大海法印が江戸時代の初期に、祈願道場を開
いたのが始まりとされ、修験道行人派の本山になりました。
その後、天台宗延暦寺派に属し、松林山大円寺と号しています。

 

行人坂大円寺

 

また徳川家の菩提寺、上野寛永寺を開いた天台僧、天海僧正は、目黒の地が江戸城の
裏鬼門にあたることから、ここ大円寺に守護神として、五穀豊穣の神様である大黒天
を納め、江戸の安泰を祈願されたということです。
こちらの御朱印には、“大黒天”と墨書きされています。

 

朱印 目黒大えんじ

 

 江戸時代、振袖火事、車町の火事と並ぶ江戸三大火事の一つに数えられる明和の大火は、
この大円寺から出火したそうです。
境内には、釈迦三尊像を中心にして、五百羅漢の石仏群が安置されていますが、これは、
この大火のために亡くなった人々を供養するために造られたものだそうです。

 

大円寺五百羅漢

 

斜面を背景にして並ぶ五百を越える素朴な石仏群が、なんともいえぬ安らぎを与えて
くれるお寺です。

 

 

羅漢寺 (島根県)

 

羅漢寺は、世界遺産となった岩見銀山の観光名所、“龍源間歩”(通り抜け坑道)に通じる
遊歩道の出発地、銀山公園駐車場の近くにあります。
下の写真は、龍源間歩入口と石見銀山の内部になります。

 

石見銀山20

石見銀山の中20

 

創立は、明和元年(1764年)、真言宗のお寺で、本尊は、阿弥陀如来になります
18世紀中頃、銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために、25年もかかって
代官や代官所役人、領内の人々の援助、協力により石橋などを築き、石窟内に石造の五百
羅漢を納め羅漢寺を建立したそうです。

 

石見五百羅漢寺20

 

羅漢堂(写真下)は、岩盤斜面に3つの石窟があり、中央窟に石造釈迦三尊仏を、左右両窟
には五百羅漢像が所狭しと並べられ、左右それぞれ250体ずつ、計501体の坐像が安置されています。
羅漢像は、高さ36㎝~47㎝で、石工により、精巧に刻まれていて、色あせていますが朱や
白色に塗られた表情豊かな羅漢さんが並んでいます。
撮影禁止のため、ご覧にいれられなくて残念です。

 

石見五百羅漢寺羅漢堂20

 

こちらの羅漢像は、太田市温泉津町福光から産出された福光石で造られ、“坪内兵七利忠を
はじめとした福光の石工たちの手で刻まれたそうです。
石見銀山の石工技術とも関係しており、石造物文化を代表する貴重な信仰遺跡と言えそうです。

 

朱印 石見羅漢寺

 

 

 

天寧寺 (滋賀県)

 

天寧寺は、彦根駅から徒歩で15分ほどの、彦根市内を一望できる里根山の中腹にある曹洞宗の寺院です。

 

天寧寺本堂

 

創建は文化8年(1816)、11代彦根藩主井伊直中が、不義をとがめ成敗してしまった腰元とその子の菩提を弔うために創建したといわれます。
腰元の不義の相手が自分の息子と知った直中公は自らの行いを悔い、本尊になる観世音菩薩をつくり、また、名工駒井朝運に500体の羅漢像を彫らせ、二人の菩提をともらったと伝えられています。

 

天寧寺五百羅漢2

天寧寺五百羅漢

 

このように天寧寺は、井伊家のプライベートな寺であり、桜田門外で暗殺された井伊直助の供養塔も境内に建立されています。下の写真は、井伊直弼公の好みで作られたと言われる石州流庭園越しにみた彦根市内になります。

 

天寧寺庭からの眺め

 

天寧寺ご朱印

 

 

 

 

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