今からおよそ1,000年も前の平安時代、溢れ出る情熱をもって恋愛小説や日記・歌などを綴った女流作家・歌人にスポットを当て、彼女たちのゆかりの寺を巡る御朱印集めの旅を紹介します。
世界に誇る源氏物語の大作を残した紫式部、枕草子を残した機知に富む才女清少納言、世界三大美人の一人にも数えられる小野小町、また情熱的で自由奔放な性格、未だ男性ファンが多い和泉式部、今回はこの4人のゆかりの寺を紹介します。
このような寺の御朱印をいただくのも、御朱印集めの楽しみの一つかと思います。
石山寺 (滋賀県)
石山寺は、JR東海道線石山駅で京阪電車に乗り換え、二駅目の石山寺駅から徒歩で10分
程度の所にあります。
石山寺は、紫式部が源氏物語を執筆した所として知られています。京の都の喧噪を離れ、
川(瀬田川)と山に囲まれた静寂な環境、ここで式部は一人物語をつづっていたようです。
石山寺は、東寺真言宗の寺で、山号は石光山、本尊は如意輪観音であり、奈良の長谷寺や
京都の清水寺と並ぶ有数の観音霊場であり、西国三十三観音霊場の13番札所になっています。
天平19年(714)、聖武天皇の勅願により良弁僧正により開かれたと伝えられています。
上の写真の本堂(国宝)は、正堂、合の間、礼堂の三つからなる複合建築で、正堂は11世紀
にたてられた滋賀県最古の建築物になり、ここの本尊如意輪観音が安置されています。
合の間の東端は、紫式部が源氏物語を書いたと部屋と言われ「源氏の間」と称されており、
執筆中の紫式部の像が安置されています。
本堂の前には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえており、
天然記念物になっています。
国宝の多宝塔は、1194年に建てられたもので、年代がわかる多宝塔としては日本最古の
ものになります。
境内は広く、源氏苑には紫式部像が建てられ、琵琶湖をかたどった池や滝がある“無憂園”には、
花菖蒲が花を咲かせていました。
御朱印は、西国13番の御詠歌入り、見開きでいただきました。いただいた御朱印は、
「大伽藍」と記されています。
お坊さんが修行する大きなお寺、お堂ということになるかと思います。
御詠歌は、「後のよを 願うこころは かろくとも 佛のちかい おもき石山」と記されています。「我々の願いはたとえ小さくても、観音様のご慈悲のお心は重くありがたいものである」と言うこ
とではないかと思います。
石山寺には、紫式部をモチーフにしたオリジナルの御朱印帳もあります。
魯山寺 (京都府)
魯山寺は、京阪電車「神宮丸太町駅」から徒歩15分程度の所にある天台宗の寺院です。
天慶元年(938)に、延暦寺中興の祖である元三大師良源が開基した寺で、本尊は阿弥陀如来になります。
参道正面に位置するのは元三大師堂で、ここの本尊は元三大師になります。
寺のホームページを拝見しますと、こちらが紫式部の邸宅跡になります。また源氏物語や
紫式部日記はほとんどこの地で執筆したと言うことです。
魯山寺の境内にあったと言われる邸宅は、紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔が建てたもの
であり、式部はこの邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(1031)
五十九歳ほどで死去したそうです。
境内には、有名な『めぐりあいてみしやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月かな』
の歌碑が建っています。
この歌は、つれない男を想う恋の歌かと思っていましたが、聞く所によりますと、久しぶりに
会ったのに早々と帰ってしまった幼友達の女性を、夜半に沈む月にたとえ、心から惜しんで詠
んだ歌なのだそうです。
御朱印は、“元三大師”のものと“紫式部邸宅址”の2枚をいただいてきました。
泉涌寺 (京都府)
泉涌寺は、東福寺駅から、徒歩15分程で行くことが出来ます。
泉涌寺は、真言宗泉涌寺派の総本山で、皇室との関連が深く御寺(みてら)とも呼ばれています。
本尊は、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩の三尊になります。
寺伝によれば、弘法大師空海が天長年間(824-34)ここに草庵を結び、法輪寺としたのが起こり
だそうです。そして1218年に月輪大師が造営するにあたり、清泉が涌き出たことに由来し、
泉涌寺と改められたそうです。
仏殿の近くには、寺名の元になった泉がいまもわき出ており、泉涌水屋形が建てられています。
皇室の当寺に対する帰依が篤く、1242年、四条天皇崩御の際は、当山で葬儀が営まれ、
山稜が当寺に造営されています。
その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る
歴代天皇・皇后の葬儀が当山で執り行われ、山稜が境内に設けられ、皇室の菩提寺として
「御寺」と尊称されるようになったそうです。
当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ以降の建立のものだそうです。
大門から参道を下って正面の仏殿(写真下)は1668年に再建されたもので、続く舎利殿も
同時期に再建されたものだそうです。
泉涌水屋形の隣には、清少納言の『夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の関はゆるさじ』の歌碑があります。“中国の故事では、関守も眠っている深夜、一番鳥の鳴き声をまねて函谷関の関を開けさせて逃げ延びた武将がいるそうですが、私の逢坂の関は絶対に開きませんよ”と強い女の心を詠んだ歌として知られています。中国の『史記』の故事を引き合いに出し歌にする、さすが才女清少納言と言ったところでしょうか。
清少納言の足跡はあまり知られていませんが、寺によりますと、晩年を現在の泉涌寺のあたりで暮らし、彼女が仕えた中宮定子の眠る泉涌寺にある御陵を拝しながら生涯を終えたということです。
こちらでいただいた御朱印は2つです。
一つは、皇室菩提寺としての御朱印です。菊紋が立派に大きく押印され、香を焚き花を供える場所、という意味の「皇室香華院」の印、そしてその場所である「霊明殿」が書かれています。そして最後に「みてら」と記されています。
二つ目は、大門をくぐってすぐ左にある“楊貴妃観音堂”でいただいた御朱印です。
中国・南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置されており、像容の美しさから、
玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれてきたそうです。
下の写真は、楊貴妃観音堂になります。
誠心院 (京都府)
誠心院は、阪急河原町駅から徒歩7,8分、新京極六角にある真言宗泉涌寺派の寺院です。
寺伝によりますと、誠心院の初代の住職は和泉式部で、その法名を誠心院専意法尼になるそうです。
娘の小式部に先立たれた和泉式部は、円教寺の性空上人に勧められ誓願寺の本堂(写真下)に籠り
ご本尊に教えを受けたのが始まりと言うことです。
和泉式部は、情熱的な才色兼備の女性として知られ、様々な勅選集に246首の和歌が取り上げ
られています。また敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』は、わが国
の女流文学を代表する一つとしてよく知られています。
藤原定家が選定した小倉百人一首には「あらざらむ この世のほかの思い出に 今ひとたびの
逢うこともがな」という魔性の女、和泉式部らしい歌が取り上げられています。
小御堂と呼ばれる誠心院の本堂には、本尊の阿弥陀如来と共に和泉式部の像も安置されています。
また、境内には、式部の墓と伝えられる宝篋印塔や歌碑も建てられています。
山門の所には、当院に伝わる「和泉式部縁起絵巻」のパネルが展示されています。
いただいた御朱印は、和泉式部も崇拝したであろう本尊”阿弥陀如来”と墨書きされていました。
誓願寺 (京都府)
誓願寺は、誠心院の北100m、京都市中京区新京極通りにある寺院です。浄土宗西山深草派
の総本山で、本尊は阿弥陀如来になります。創建は天智天皇6年(666)、天皇の勅願により
奈良に建立され、平安遷都後に京都に移ったと伝えられています。
寺伝によりますと「法然上人」から続く浄土門の聖地として、 また深い山間ではなく、
「街の中にあるお寺」、「暮らしに密着した信仰の場=念仏道場」として人々に愛され
続けてきたのが誓願寺になるそうです。
そのためか誓願寺にゆかりの深い歴史上の人物も多く、ことに「清少納言」「和泉式部」
といった女性たちからの深い信仰を集めたため「女人往生の寺」とも称されているそうです。
境内には、”扇塚”が建てられています。
清少納言は当寺で菩提心をおこして尼となり、本堂そばに庵室を結び、その後、
念仏して往生をとげたそうです。
誓願寺では、「和泉式部」をデザインしたオリジナルな御朱印帳も販売されています。
男性ファンにとっては、是非とも手に入れたい一品かと思います。
小町寺(補陀洛寺) (京都府)
補陀洛寺は、京都市左京区静市市原の地、鞍馬に向かう鞍馬街道沿いにある天台宗の尼寺です。
創建は、十世紀中ごろと言われ、“補陀洛”寺の名の通り、元は本尊に千手観音を要する
補陀洛信仰の観音霊場として知られていたそうです。この千手観音は平安時代の終わりに、
奥州平泉の毛越寺の方に移され、現在の本尊は、阿弥陀如来になります。
下の写真、現在の本堂は、1999年に再建されたものです。
いただいた御朱印は、本尊“阿弥陀如来”になります。
詳しい系譜は不明と言われる謎の多い小野小町、ここ補陀洛寺は終焉の地と言われ、
通称“小町寺”と呼ばれています。本堂には、絶世の美女の最後の姿か、見るに忍び
ない小野小町老婆像が安置され、拝観することが出来ます。
境内には、小町姿見の井戸や小町供養塔(下写真正面奥)があります。
また小町の基に百夜通いを試み、99夜通ったが最後の日に雪に埋もれ凍死したと
伝えられる深草少将の供養塔(上写真手前)も建てられています。
随心院 (京都府)
隋心院は、京都府山科区小野にある真言宗善通寺派の大本山の寺院です。
本尊は如意輪観音、山号は牛皮山です。
開基は991年、真言宗小野派の祖である仁海僧正であり、一条天皇よりこの地を賜り建立
したもので、古くは曼荼羅寺と称していたそうです。
これは、寺伝によりますと、仁海僧正が亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見て、
その牛を尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼
羅の尊像を画き本尊にしたことに因んでいるのだそうです。
いただいた御朱印にも“曼荼羅殿”と墨書きされていました。
隨心院がある小野の地は、小野氏の一族が栄えたところで、宮中で仁明天皇に仕え、
絶世の美女、また歌人として知られる小野小町もこの地の出で、宮中を退いて後も、
この地で過ごしたそうです。
隨心院には小町化粧の井戸などいくつかの遺跡が残っています。
見事な小野小町像の屏風絵も見ることが出来ます。
境内には、小倉百人一首の第9番、
『花のいろは うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに』
の歌碑が立っていました。
「きれいに咲いていた桜の花も無情な春の雨にうたれてすっかり色あせてしまった。
それと同じように私の自慢の美貌もむなしい色恋沙汰にかかわり、思い悩んでいる間に、
すっかり衰えてしまったことよ」のような解釈が出来るかと思います。
境内には小野梅園という梅の名所があり、遅咲きの「はねずいろ」と呼ばれる
薄紅色の梅が多いことで知られています。
毎年3月の下旬の日曜日は、境内ではねず踊りと観梅の催しが行われるそうです。
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出来ると思います。
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