いただく御朱印の中には、歴史の舞台を今に伝える、歴史ロマンが漂う御朱印をいただけるところがあります。
この記事では、歴史の舞台を伝える全国の寺社の御朱印めぐりを紹介しています。
赤間神宮 (山口県)
赤間神宮は、下関市、眼下に関門海峡、壇ノ浦を望む高台に鎮座する、ひと際まばゆい神社です。
源平最後の決戦となった壇ノ浦の合戦に敗れ、わずか8歳で関門海峡に入水された第81代天皇、安徳天皇を祀っています。
境内には、安徳天皇の御陵や壇ノ浦に散った平家一門の墓があります。
壇ノ浦を望む水天門(写真上)は、竜宮城を想わせる鮮やかな造り、乙姫様がでてきそうな華やかさ、
壮麗さには驚かされます。
水天門は、「今ぞ知る みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」と詠まれ、安徳天皇を
抱いて入水した二位の尼の願いを、昭和33年になって、竜宮造りの形で実現としてものだそうです。
また境内には、赤間ヶ関の阿弥陀寺(現赤間神宮)で「ほーいち、ほーいち」と呼ぶ平家の亡霊に、
耳をとられてしまった盲目の琵琶法師“耳なし芳一”の伝説にちなんだ“芳一堂”もあります。
母からこの怪談を聞き、トイレに行くのが怖くなった子供のころを思い出します。
いただいた御朱印は、小さな菊紋付きでした。
高館義経堂 (岩手県)
平泉駅からおよそ500メートル、中尊寺のほど近い北上川を望む高台にあるのが高館義経堂です。
眼下には、ゆったりと北上川が流れています。
兄である源頼朝に追われ、平泉に落ち延びた源義経は、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に
妻子と共に身を置いていたと伝えられています。
そして、頼朝の圧力に屈した泰衡の前に、この地で妻子と共に自害しています。
義経堂は、天和三年(1683)仙台藩主伊達綱村が義経を偲んで建立したものだそうです。
元禄二年(1689)に、この地を訪れた松尾芭蕉は、悲運の武将源義経を偲び 「夏草や 兵どもが 夢の跡」
の句を読みましたが、北上川を見下ろす高館の高台に歌碑が建てられています。
いただいた御朱印には、「義経大明神」と書かれていました。
吉水神社 (奈良県)
吉水神社は、奈良県吉野町にある神社です。
吉水神社の境内からは一目千本と言われる、中千本の絶景のお花見スポットとしても知られています。
古くは、豊臣秀吉もこちらに花見に訪れたそうです。
吉水神社は、南北朝時代の南朝の元宮であり、後醍醐天皇を祭神としています。
また天皇の忠臣であった楠木正成と吉水院宗信法印を合祀している神社になります。
当社には、後醍醐天皇の玉座(写真下)や、頼朝に追われる身となった源義経が潜んでいた潜居の間
などが当時のまま残っており、動乱の時代を感じることが出来る所です。
境内には、「花に寝て よしやよしのの 吉水の まくらのもとに 石はしる音」と後醍醐天皇が詠
まれた歌碑が立っています。京への思いが根底に流れている歌かと思います。
いただいた御朱印には、「南朝皇居」と記されていました。
川中島古戦場八幡社 (長野県)
川中島古戦場八幡社は、長野インターの近く、長野市小島田町にある八幡原史跡公園内にある神社です。
この八幡社は山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡として、この地に八幡大神を勧請したと伝えられています。
祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)、建御名方命(たけみなかたのみこと)になります。
5度にわたって繰り広げられた信玄と謙信の川中島の戦いの中で、永禄4年(1561)の戦いの舞台になった
のが八幡原だそうです。ここでの戦いが最も激しかったそうで、山本勘助もこの地で戦死しています。
史跡公園の松林の中には、八幡社がたたずみ、境内には、馬に乗った謙信の剣を信玄が軍配で防いだという
「謙信・信玄一騎打ちの像」が建てられています。
またその時、謙信が馬上から信玄めがけて三度にわたり斬りつけ、また信玄の持つ軍配には7か所の
刀傷があったという、「三太刀七太刀之跡の碑」(写真下)や首塚などがあります。
いただいた御朱印には、「信玄・謙信一騎打ちの地」と記されていました。
八大神社 (京都府)
八大神社は、叡山電鉄「一乗寺」駅下車 徒歩約15分の京都市一乗寺にある神社です。
創建は永仁二年(1294)、祭神として素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八王子命の3神を祀り、方除・厄除・縁むすび・
学業の神様、そして一乗寺の氏神様として尊崇されています。
八大神社は、宮本武蔵ゆかりの神社として知られています。
八大神社の境内地である一乗寺下り松(さがりまつ)は、宮本武蔵と吉岡一門が決闘を行った場所
として伝えられています。
八大神社の本殿の横には、当時の”下り松(さがりまつ)”の古木が保存されていて、宮本武蔵像も建立されています。
なお神社の案内によりますと、武蔵は決闘を前に八大神社に祈りをささげようとしたそうですが、
「我れ神仏を尊んで神仏を恃まず」と思い立ち、結局祈りをせずに下り松へ向かったということです。
いただいた御朱印には、緑色で決闘に向かう宮本武蔵の姿絵が押されていました。
宇賀神堂 (福島県)
宇賀神堂は福島県会津若松市にある飯盛山の中腹、会津藩士の若い子弟たちで構成された白虎隊の自刃地、
また白虎隊士19人が眠る墓の近くに立つお堂です。
白虎隊はここ飯盛山から会津城下(写真下)を見て、武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや
帰るところもないと死を決意したそうです。
白虎隊士自刃の地には、鶴ヶ城を見る隊士の像(写真下)も建てられています。
宇賀神堂の創建は江戸時代初期の寛文年間(1661~1672)に、会津藩三代藩主松平正容が
宇賀神(弁財天と同神と言われる神で、穀物・食物を司り五穀豊穣に御利益がある)を勧請し、
弁財天像を神像として社殿を建立した事に始まるそうです。
そして明治二十三年(1890)、白虎隊士の墓を改修した時に、飯盛山で自刃した19人の霊像を安置したそうです。
いただいた御朱印には、「白虎隊十九士霊神」と記されていました。
宇賀神堂の同じ境内には、会津の代表的な観光名所の一つである「さざえ堂」があります。
さざえ堂は、上りと下りで同じ道を通らず抜けてこられる二重らせん構造の斜路が続く木造の
お堂で、国の重要文化財に指定されています。
談山神社 (奈良県 )
談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある神社です。
下の写真は、拝殿から見た本殿になります。
談山神社の御祭神は、大化の改新に功績のあった『藤原鎌足』です。 645年、中臣鎌足(後の藤原鎌足)は 当時の皇太子、中大兄皇子(後の天智天皇)と二人、多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の 談合を行ったそうです。 後にこの談山神社が鎮座する多武峰の山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社 の社号の起こりとなったそうです。
境内にある十三重の塔は、唐の清涼山宝池院の塔 を模して建てられたといわれています。高さは約17メー トル、
屋根は伝統的な檜皮葺きです。神仏混淆時代の名残であると同時に、談山神社のシンボルになっています。
いただいた御朱印、まずは祭神、鎌足公を表す「談山大明神」になります。
右上には「多武峰」と書かれています。
二つ目は、「鎌足公の像」の御朱印です。
三つ目は、「神廟」、十三重塔が押された御朱印です。
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